おはようこざいます。さやかです。突然ですが、少し前にこのブログでも色々と書いた「憧れの先輩」にあたる人が毎日格好良くて参っています。誰かに似てる気がする、とずっと思っていましたが最近ようやくわかりました。向井理です。
向井理のかっこよさがずっとわからなかったんですけど、さっき最終回だけ見てしまったドラマの中の向井理が私の好きな先輩にすこし似ていて 向井理までかっこよく見えてきました。逆輸入みたいな感覚です
— 爽 (@oyasumitte) 2019年6月25日
先輩は既婚者であらせられますので、断じて好きな人ではありません。私は職場恋愛も不倫も、どちらも絶対に嫌です。
わたしが固定電話でとった意味不明な電話を通りがかった先輩が後ろから代わってくれて、そのまま屈んで私の手元でメモを取り始めたおかげで数分間ヤバイ距離感にさらされ、終わった後に笑顔でかけられた言葉も惚けて聞き取れず もう今夜は自分が使いものにならないと悟る18:23
— 爽 (@oyasumitte) 2019年6月26日
職場恋愛も不倫も……どちらも絶対に……絶対に……!
月曜日から木曜日までの4日間は永遠かと思うほど長かったのに ご機嫌な先輩に構われてキャッキャウフフしてたら一瞬で金曜日が終わった
— 爽 (@oyasumitte) 2019年6月28日
…………。
先輩とかいう自担が職場にいる生活、楽しすぎるな。推しと普通に話せるし 笑えるし お姫様扱い(笑)もされるし ノーモーションで「今の可愛いかった」とか爆弾投げつけられる日もある、完全にときめきの供給過多、、、もう画面の向こうのアイドルのオタクとかできない
— 爽 (@oyasumitte) 2019年7月2日
……私は一体、毎日何をしに会社に行っているのでしょうか。
しかしやはり会社に推しがいる生活は最高です。画面越しに見る推しに届かないラブコールを送ったり、ステージ上の推しと目が合ったような錯覚だけで満足するしかなかったりするのが一般的な推し-オタク関係の常ですが、職場に推しがいれば目が合うなんて当然のこと、その後ニヤニヤしながら「なに」「先輩こそ何ですか」「一生懸命な感じ、見てて飽きない」などとからかわれたりします。幸せです。みんな職場に推しをつくりましょう。
どうせ行かねばならぬなら
こんな風にして私は、望むと望まざるとに関わらずやらなければならないこと、自力では避けられないことをいかに楽しむかを考えるのが結構好きです。会社が休みの土日が楽しくて会社に行かなければならない平日を迎えるのが憂鬱なら、平日、会社に行きたくなる理由を自分で作れば良いじゃないかと思うのです。それは私だって朝はできるなら寝ていたいけれど、それでも社会人として生きていくために起きて朝ごはんを食べて化粧をして仕事に行かなければならないなら、化粧をするのはマナーであり義務だなんて思うよりも、特定の誰かに可愛いと思われるように顔に色やキラキラしたものをのせていく作業だととらえる方がずっと楽しいと思います。
もちろん私がそう思えるのは、恵まれた環境に身を置いているからであることもわかっています。私のように「会社に行かなければならないことが何となく鬱」とか「直属の上司とだけはどうしてもそりが合わない」みたいなことしか当面の悩みがない人がいる一方で、業務内容そのものが苦痛で仕方ないだとか職場にまったく馴染めないという辛さを抱えている人もきっといるのでしょう。その場合はきっと、そのストレッサーをいかに躱すか、あるいはいかに心身の距離をとるかという方面で対策をとるのが良いように思います。ただもし「なんとなく鬱」なだけなら、モチベーションアップには何か自分で意識してプラス要素を加えてみたり、ポジティブに捉えられないかフレーミングを見直してみたりするのは結構おすすめしたい方法です。
世界の解像度を上げる方法
多くの場合、毎日ほとんど同じになってしまうであろう通勤ルート。飽きますよね。しかも私は会社に電車通勤しか許されていないので、毎朝電車に乗るしかありません。満員電車に乗ることによるストレスは本当にバカにならないと実感しています。たとえ私のように満員電車を早朝出勤で避けたとしても、同じ移動を毎日繰り返すという快速急行マンネリ行きルートを避けることは難しい。こんな風に状況の方を変えられないのであれば、自分が柔軟に対応するしか鬱や飽きを遠ざける方法はないのです。
その自分がいかに楽しむかという点において私が有効だと思う方法の一つが、解像度を上げること。解像度とは、広辞苑によると
①写真で、レンズまたは感光材料が作る像の細部表現力。
②テレビ・ディスプレーの画面上で、区別し得る縦方向または横方向の白黒の縞の総本数。
③プリンター・スキャナーの表現力(再現密度)を表す指標。
平たく言えば「画質の良さ」。解像度とは、世界をどれだけ細やかに鮮明に見て認識して、描くことができるかを表すものです。
解像度が上がると何が嬉しいかというと、今まで見えなかったものが見えてきます。たとえば私は自転車に乗るのが趣味なので、土日には普段は電車で通り過ぎてしまう道を自転車で走ることがよくあります。そうすると、電車に乗ってしまっていると見えない世界を見ることができるのです。
電車や車に乗って通り過ぎるよりも自転車で走った方が、自転車で走るよりも自分の足で歩いたり走ったりしてみる方が、世界をより細部まで認識できます。自分のものになる情報量が増えるのです。
同じ理由で私は、時間に追われない旅先では快速電車よりも鈍行電車に乗るのが好きです。もう二度と訪れないかもしれない場所で快速に乗ってしまったら、その電車が止まらない駅の名前や、どんな人が乗り降りする駅で、周りには何があるのかを知ることは無くなりますよね。降りない駅でも自分の耳でそれを聞いて、自分の目で見ておくと、たとえば後にその地名を聞いたときにパッと情景が思い浮かんだり、それが会話の中なら「そこ、○○なところですよね」と話を広げる糸口になったりもします。
通勤の話に戻りますが、一度歩いたことのある自分にとって情報量が多い(と同時に徒歩移動による疲労の記憶がある)道を自転車や電車で走り抜ける感覚って気持ちよくないですか?私は家から会社までそこそこの距離があるので、一度徒歩で歩いて「遠いなあ!」と思ってから電車に乗ると文明に感謝の念が起こり、遅延でたまに電車が停止しながら進むようなときにも「あ、この辺りの地上にはあのお店があるな」とか考えているとイライラしません。個人的には結構それで電車のストレスが軽減している気がするのですが、これは私が単純すぎるのでしょうか。
今日こうしてこのブログを書いてきて、私は「やらなければならないことをもっと楽しむため」という理由がなくても単に解像度を上げる作業が好きなんだなと思いました。足で稼ぐ地理的な情報に限らず、読書や何かしらの体験を通して知識や語彙を増やすことで、見えるものが増えていくことが楽しいです。
それはそれとして、職場に推しをつくってキャッキャウフフするのも楽しくてオススメではあります。私はちょっと寿退社を夢見る腰掛けOL並みに浮かれすぎていた感があるので、もう少し地に足つけていきたいです。せっかく得た語彙も、押しの前では失われて「やば」「かっこいい」「好き」ばかりになってしまいますしね。
ごきげんよう、さやかでした。