どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

「何を言うかより誰が言うか」問題

ツイッターを使っていると時々、こんな風に言う人と出会う。「ツイッターは何を言うかより誰が言うかが重要な世界だよね」。

詳しく聞いてみるとそれはつまり、フォロワー数の大小がその人の発する言葉の信憑性に関わっていることに対する諦念や不満であることが多い。まったく同じ内容を発信したときでも、フォロワー数が多い人の発信は、それをもっともらしいと信じたり他人にも教えてあげようと拡散したりする人が多いのに対し、フォロワー数が少ないと見向きもされない。同じ内容でもそうだし、時にはフォロワーが多い人の誤った発信に対して少ない人が正しく批判した場合でさえ、後者は注目されないか、あるいは前者のフォロワーに攻撃されることまであるようだ。

 

確かにツイッターをはじめとしたSNS上では、フォロワー数やそれを拡散している人の数が多ければ多いほど、その言葉の重さは増すのはおそらく事実だ。でもそのこと自体に、何か問題があるのだろうか?

 

確かに注意する必要はある。実際のところ、先に挙げたような数字はその人自身や発する言葉の信憑性とはあまり関係がない。常にそのことを念頭に置いて情報を精査するべきだ。「誰の言うことを信じるか」という問題に関して、フォロワー数という1つの物差しに頼るのは危険だと思う。

 

でも私は、誰が言うかを重視することそれ自体が問題だとは思わない。それは何もツイッターでアルファアカウントが発信力を持つようになった今に始まったことではないからだ。年の功がある長老、不思議な力を持つシャーマン、学界で権威のある専門家。皆、誰が言うかを重視する世界でこそ生まれたポジションだ。ツイッターでは、年の功よりも学界で知られる功績よりもフォロワーの数を信用の指標とする人が多い、それだけのことではないだろうか。

 

なにより私は、「あなたが言うなら」という感覚が好きなのだ。言われる方も、自分が誰かに対してそういう感情を抱く方も好き。「あなたに褒められて嬉しい」、「あなたが言うならそうしてみる」、「あなたの頼みなら何でも聞くよ」。褒め言葉にも批判にも、わたしが発する言葉には私自身がどういう人間か、相手とどんな関係性を築けているかが必ず影響する。

 

繰り返しになるけれど、何を言うかより誰が言うかが言葉の重みを決めてしまうこと自体について、私は特に違和感を感じない。何をどう言うかよりもまず誰が言うかが重視されるという前提の上で、自分が無駄に不利な立場に身をおくことのないように振る舞いたいと常々思っている。私の言葉に対して「あなたが言うのなら」と思ってくれる人が増えるのは間違いなく私にとって幸せなことだからだ。

 

ただ、「何を言うかより誰が言うか」は時間の経過と共に反対の「誰が言ったかより何を言ったか」に寄っていくことが知られている。人間の脳は情報内容より先に情報源を忘れるようにできているらしいのだ。信頼性が低い情報源から得た情報は、しだいにその情報源由来の信頼性の低さが消えていき、内容だけが記憶に残る。これはスリーパー効果とよばれ、情報リテラシーの高さとは関係なく誰にでも起こり得る。自分が正しいと思うことを発信し続けていれば、その瞬間誰かが納得してくれることはなくても、いつか誰かの正しい判断の助けになるかもしれない。

 

そんな来るかどうかわからないいつかを待てないとしても、普段重きがおかれる「誰が言うか」だって、何を言ったか、何をしたかの積み重ねで形作られるのだ。どうせ何を言うかより誰が言うかが重要だからと最初から拗ねていたら、「あなたの言葉なら」と耳を傾けてくれる誰かはきっと増えていかない。

 

ぐるぐるしてしまうけれど、私たちは基本的に「何を言うかより誰が言うか」が重視される世界に生きていて、でもその「誰が言うか」をつくるのは「何を言うか」だから、結局どっちも大切ですねっていうことが書きたかった。

以上です。

どうしてそんな言い方をするのですか?

突然だが、私は女である。「男なんかに絶対に負けたくない!」という女尊男卑気味の強火男女平等論者ではなく、かといってこってり男尊女卑側の人間というわけでもない。

 

たとえば私は誰かと結婚することを考えたとき、共働きは前提とした上で、稼ぎ手として自分はサブのポジションをとりたいと思っている。相手と同じくらい働いて同じように稼ぎ、当然同じように家事・育児など家の中のことも分担するよりも、明確に役割を分けた方がうまくいくのではないかと思うからだ。家事や育児など所謂「女の仕事」とされていた領域においては私が主軸を担いたいが、それは育児が女の仕事だからではなく、あくまでもそうするのが私にとって自然なことに思えるからだ。……とはいえ私は女であると同時に社会人でもあるので、自分の仕事はずっと続けていきたい。

つまり、私は自分が女であることに甘んじて「結婚しても働き続けたいけど家庭における働き手としてはサブでいい(つまり相手には自分より稼いでいてほしい)」と言っている。最近っぽい男女平等の考え方と、女は男の三歩後ろを歩くべしという古めかしい価値観に片足ずつ突っ込んでいると思う。その2つのあいだで必死に反復横跳びをし続けていると言ってもいいかもしれない。

 

さて、そんな私だが常に「男に負けたくない」と闘争心を燃やしている女性は好きだ。逆に「女の幸せは男に養われること」だと専業主婦を志望する女性のことも好きだ。自分の望みがあって、それに対して一人だったり、時には志を同じくする仲間と一緒にだったり、ひたむきになっている人が好きだ。自分と誰かの目指すところが違うことは、その人たちの言葉を理解できないこととは全く違う。

一方で私が理解に苦しむのは、自分の願望のために周りに求めることが目に余るほど多い人とか、本来目指すゴールに関係ないところで味方を減らすような言動をとってしまうアピール下手な人の存在だ。

 

随分抽象的な書き方になってしまった。私が苦手だと感じるのは、たとえばこんな表現だ。

このツイートから私は「女の体温データの方がセンシティブ(だから男のそれより慎重に扱われるべき)」という主張、そしてその主張の理由がわからない人への嘲りも同時に感じてしまった。

もう齢23の女なので、元ツイートの「センシティブ」の言わんとすることは理解しているつもりだ。女の基礎体温は雄弁で、毎日測って記録していけば妊娠しやすい日などがはっきりとわかる。見る人が見れば生理周期もバレバレなのである。

そういう事情があって「女の体温データは男のそれよりも特別だれかの興味をひく可能性がある」のはおそらく事実だ。事実だし、それを警戒する女性の気持ちも、警戒する女性に配慮して「特別慎重に扱おう」とする人の感覚も真っ当だと思う。

 

ただ、もし女性の「職場の人に体温データをむやみに知られたくない」という不安を解消すること、あるいはその不安を理解する者として管理を徹底すべき旨を誰かに伝えることが目的ならば、データを管理するべき人に対しては「体温も個人情報だから取扱には十分な注意を払う必要があります」と性別には触れずに釘を刺すだけで解決しませんか、と思ってしまうのだ。

 

何が言いたいかというと、女の身体について多少の知識がある人が、そうでない人に向かって「(あなたにはわからないでしょうから言ってあげますが、)女の体温データはセンシティブ度が高いので慎重に扱ってくださいね」と言う感じが苦手だ。言った台詞だけならまだ普通だけれど、そのあとの「なぜか(こんな常識的なことも)わからない人がいて、そっちの方が驚くわ」を見るともう台詞の前に()内が透けて見えてしまう。わたしの邪推なので違ったらごめんなさい。

もしくは、やはり女性の体温について強調してその厳重管理を促したいのであれば「ご存知かとは思いますが、」と断って理由を説明する方が親切だと思う。相手が理解しないことを確認してから、こんなことも知らないのかと相手を見下したり説明し直したりするよりもスムーズに解決できるような気がする。

 

ここまで書いてきて元ツイートの主の性別も思想も特に確認していないことがおそろしくなってきた。あくまでも、ツイートだけを切り取って見たときにあの言い方は個人的に好きじゃないんだよなという、それだけです、宜しくお願いいたします。

 

他にも、目指すところは素敵なのにそこに至るためのアプローチが残念で勿体なく感じる人に時々出会ってしまう。たとえば夫婦別姓での結婚を目指す女性たちとか。

私は見ての通り恋愛脳で、自分が結婚する相手の姓を名乗る事に昔から憧れがあり、夫婦別姓をあえて望むことはない。ただ私自身は夫婦同姓を望むというだけで、他の女性が別姓を選べるようになろうがなるまいがどちらでもよく、別姓断固反対派ではないと同時にその権利が絶対に必要だとも思っていないという立場だ。そんな私から見ても、夫婦別姓の権利獲得に励む女性たち(の一部)はなんだかとても応援しにくい。

 

少し前に『夫婦別姓について、婚約者(男)へ真正面から切り出してみた。|ice|note』という記事が話題になった。ツッコミどころが多すぎるので内容については省略するが、最終的に結婚に関することを「一番プライベートな部分」だと言う筆者の女性と、結婚を社会的な関係と見なしている男性がわかりあえないのは当然だろうなと思う。あと話し合いの場で自分のバズったツイートを見せるのも、わたし的には無しだ。 

 

「私たちのつらさをわかって!」「私の苦痛について説明するので理解する努力をしてみて」という主張はわかる。時には同情もする。でもなぜか夫婦別姓を訴える声の大きい人は「私たちに同調しない人間は後進的で知性がない」と攻撃的になりがちな気がしてしまう。自分の望みを理解してほしいなら、そしてそれを受け入れる側にあまりメリットがないなら、言葉を尽くして懇切丁寧に伝えるべきだし、受け入れられないときにも相手を責めるべきではないと私は思う。

夫婦別姓婚や事実婚に難色を示す男性に対し「知的な男性は肯定的に夫婦別姓の話をする」と言ってみせて、どうして意見を変えてもらえると思うのだろう。話し合いの最中に自分を知的ではないと断じてきた相手の意見を、それ以前よりも好意的に聞ける人がどれくらいいるだろう。そんな言葉に本気で「知的な男性でありたいから夫婦別姓婚を肯定しよう」などと思う薄っぺらい男性、私は嫌だなあ……。

 

被害者面をして正義をかたり、相手に自分の望むところを満たさせようとする姿勢は、とてもがめつい。今回はわたしが女だからか、気になるアピール下手さんの例を挙げたら女性ばかりになってしまったけれど、性別は関係がない。

個人的には、女性の体温データの扱いを男性のそれより厳重にしたっていいし、別の姓を名乗る夫婦が表れたって構わない。選択的夫婦別姓には賛成しても構わないと思っている私にさえ「でも何か応援したくならないのよなあ」と思わせるのは彼女たちのアピールがあまり成功していないことの表れなんじゃないかなと思うけれど、本当は私が「結婚は同じ名字になること」であってほしいと思っているだけなのかもしれない。彼女たちのせいにばかりしているのもよくないね。

 

はい。私は自分の考えが正しいと思うときほどそのアプローチの仕方も使う言葉も 丁寧丁寧丁寧〜に〜選ぶよ〜、というか選ぶようにしたいと思っているよという話でした。最後までお読みいただきありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした

 

はあ〜好きな人と同じ名字になりたい

やさしさとは何なんだろう 君に駆け寄る速さか

私は昔から、お人好しのふりをしてきた。

東にいじめられている同級生がいれば行って人目につかぬよう話し相手になり、西に皆から無視されている先輩がいれば残業中にこっそり御用伺いなどをし……

 

「共感力が高い」と言ってもらえることが多いのは有難いことだが、おそらく私は共感しているフリが上手いだけだ。「相手の立場や気持ちを否定せずに話を聞いて勇気付けられるのも才能」だと言われると、まあそうかもしれないと思う。その言葉自体は言われて嬉しかったこととして素直に受け止め、自分の中にしっかり留めておきたい。

でも実際のところ、私は結構ひどいやつだ。彼氏にも、倫理観を棚に上げてした行為をまた棚に上げて倫理観を語るところとか、彼に垢バレしてもなおツイッターで得体の知れない男性たちとつるんでいるところなんかを挙げて「サイコパスだ」と言われているし。

 

学校で同級生がいじめられていたり、職場で皆から疎まれて仕事がうまく進まずまた疎まれるという悪循環に陥っている先輩を見かけたりしたら、何もせずに放ってはおけない。でもそれは彼や彼女たちの力になりたいというよりは、何もせずにいて彼らがどうにかなってしまっては後味が悪いなという保身からだ。それに「あっち側にいたのは私だったかもしれない」「私もいつあちら側になってしまうかわからない」と思うと、何だか自分もだんまりを決め込んで彼らを傷つける側に与しているのは気持ちが悪い。

このように私は、自分がすっきりするために偽善を働いてきた。幸運にもそれを優しさだと言ってくれる人がいたというだけのことだ。

 

私は、表面的には良い子だったし、優しい人だった。多分ずっと。少なくとも私に直接語られる評価はそんなものだった。先生の話をよく聞き、他の生徒には分け隔てなく快活に接し、皆に好かれる良い子です……小学生の頃からそんな評価を当然のように受けてきた。それが私だと自分でも思っていた。

でも私のオナニー的な偽善はやっぱり、本当の優しさではなかったのだ。優しさは責任を伴う。無責任な優しさは時に暴力的にもなる。

 

 

弱っているときに人目を忍んでコソコソ優しくされたら、誰だって「この人にとっても自分は特別なのかも」と期待する。「好きだから優しくしてくれるのかもしれない」とか「私のことを少なからず好きだからこんなことをしてくれるのだろう」とか思うことは何もおかしくない。私だってクズな遊び人に心をザクザク抉られて愛に飢えていたら、女の身体欲しさに優しくしてくれる人のことだって好きになってしまう。というか実際に好きになって沼に落ちた側だから、弱っている人に優しくするというのがどれだけ尊くて、予後次第ではどれだけ残酷にもなり得ることなのかを弁えているべきだった。

 

弱っている人に「私のことを頼ってもいいですよ」というサインを出しておいて、いざ相手がこちらに一歩踏み込んで自分に寄りかかろうとしてきたら引いてしまう。相手が自分を好きになっても仕方がないような種を無自覚に蒔いて水やりまでしながら、芽が出たら「そんなつもりじゃなかった」と放置して枯らしてしまう。

そんな無責任な偽善行為は、結果的に、何もしないで放置した場合よりも相手のことを傷つける結果に終わりがちだ。そのことに薄々気付きながらも、同じ過ちを何度も繰り返しながら大人になってしまった。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」らしいが、経験からも学べていない私は愚者ですらない。社会人も2年目になったことだし、そろそろ愚者にはなっておきたい。

 

「しない善よりする偽善」という言葉がある。ただ状況が良くなるように思いを馳せたり偽善者を批判したりするよりも、動機が何であれ誰かの役に立つ行動を起こしている人の方がエラいという考え方だと思う。優しい人かどうかは心でなく行動で決まる、人の役に立つ人間にこそ価値がある、そういう響きがある。

では、善と偽善の違いは何だろう。困っている人が存在するとき、何らかの報酬を求めてその人たちにはたらきかける行為は偽善だと思われるかもしれない。でも報酬を得なければ続けられない善な行為もあるかもしれない。それに、真に利他的・愛他的な行動と、痛ましい状況を目にしたことによる自らの不快感を低減させるための援助行為だって、傍から見ると区別がつかない。だからこそ私はこれまで「自分のためにしたこと」を以って優しい人だという評価を与えてもらってきたのだ。

 

優しさとは何だろう。いじめられている同級生がいても、仕事がうまくいっていない同僚を見かけても、彼らが自分に対して抱く感情にまで責任を持てないのなら何もするべきではないのだろうか。自分が満足するための偽善なんて、無い方がずっとマシなのだろうか。無責任な優しさや責任をとれない愛は、推しにしか向けてはならないのだろうか。

 

最近の私としては、利己的な動機による無責任な偽善行為は、何もしないよりも悪いかもしれないなと思っています。する偽善よりしない善。人に優しくするって、難しいわね。できるならずっと優しい人でありたいのだけれど。

 

やさしさとは何なんだろう 君に駆け寄る速さか

それとも落ちた涙を一緒に拾うことか

愛の意味とその価値を僕は考えたけど

答えが見つからなくてただ歩くしかなかった

♪♪ 乃木坂46「やさしさとは」