どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

すぐ笑笑って付ける男 何なんだ。好きです

 

私は「笑笑」という文末の飾り自体は、特に好きでも嫌いでもない。ひとつでもおよそ意味は同じなのだから、重ねるのは単純に過剰だとは思う。ちょっと煩く感じることはある。

でも不思議なことに「笑笑」をつける人に私は惹かれがちだ。というか、好きになった男の人を振り返ると皆「笑笑」をよく付ける人たちだった気がしてくる。そもそも冒頭のツイートをしたのは今好きな人から届いたLINEに「笑笑」が付いていたからだった。

 

「笑笑」とは何だろう。私は「笑笑」をうるさく感じることもあれば、それに救われることもある。その違いは何だろう。そして「笑」ではなく「笑笑」と重ねる理由は?

 

わかりやすくするために一旦「笑」と「笑笑」は同じものとして、その機能を考えてみる。

私は「笑笑」には良くも悪くも言葉の調子を軽くして冗談めかす効果があると思っている。良くも悪くも、と書いたのは文脈によってその意味合いというか目的が変わってくるからだ。ここで言う文脈とは単なる会話の内容でなく、相手と自分の関係性も含めた、もっと広いもの。

 

たとえば私の場合、友達に「飲み行こ笑笑」と言われても特に「笑笑」が気になることはない。でも彼氏がいない時期に知人に紹介されたりアプリで知り合ったりした、異性として関心がある或いは関心を持とうとしている相手からのそれは、ちょっと気になる。「今度ごはん行かない?笑笑」の「笑笑」には逃げを感じてしまう。その腰が引けている様子が、たぶん私達女に「すぐ笑笑って付ける男なんなんだよ」と言わせている。

 

「笑笑」がいつも邪魔な飾りかというと、そうでもない。「笑笑」は良くも悪くも調子を軽くすると先述したのは作用と副作用があるから。

思うに「笑笑」の正の作用は、活字の硬さと冷たさを抑えることだ。

これは最近、今まで直接交わしていたような会話も全てメールやTeamsで行うようになって一層強く感じることなのだけれど、文字には本当に温度がない。緊迫感を伝えるには「至急」とか「可及的速やかに」とか表現を選べるし、堅い感じは狙わなくても出る。でもその逆、柔らかさを表すのはテクニックが必要だし、コミュニケーションは重要とはいえ毎回文面の角をとることばかりに気を配ってもいられない。業務上のメールのやりとりで何が辛いかというと、「笑笑」に逃げられないことだ。

 

思うに「笑笑」には言葉の調子を軽くして温かみを付与する効果があって、コミュニケーションをより円滑にする。仕事のメールでは使えないけれど、こんなに便利なのに私生活でも使用を自粛するのはキツめの縛りプレイ、ドM趣味だ。

「大丈夫ですよ。」より「大丈夫ですよ〜!笑」の方が絶対に怒っていないし、「ウケる」より「ウケる笑笑」の方が一緒に楽しんでくれている感じがする。どれも画面の向こうにあるのは真顔かもしれないけれど、そんなことはどうでもいいのだ。

重要なのは、自分の顔が見えていない相手に、自分の言葉がどんな感情を載せたものとして受け取られるかを考えることだと思う。

 

そろそろ、最初に設定した問いに私なりの答えを出したい。

 

「笑笑」とは何か?

言葉の調子を軽くして冗談めかしたり温かみを出したりする効果がある記号だ。ポジション的には句読点以上、絵文字以下っぽい。意味はあるけれど絵文字ほど特定されてはいない。

 

私は「笑笑」をうるさく感じることもあれば、それに救われることもある。その違いは何だろう。

軽薄になってほしくないところで使われる「笑笑」には、逃げを感じて興醒めしてしまう。でも他愛ないやりとりでは、相手が「笑笑」を付けてくれる人だと送る方は気が楽だ。少なくとも相手が不快ではない感じ、話そうとしてくれている感じがするのである。ストレート待ちのバッターに対して変化球で逃げるような「笑笑」は嫌いで、それ以外は好き、ということらしい。

私が「特に意味もなく文末に『笑笑』を付けてくる人」を好きになるのは、多分それだけ「特に意味もなく文末に『笑笑』を付けてくる人」が多いからだ。ただしちょっと無理やりな気はするけれど、「笑笑」で親しみやすい感じを演出してくれる人、そういう思いやりができる人が好きなのだと言うこともできるかもしれない。

 

そして「笑」ではなく「笑笑」と重ねる理由は?

これは本当によくわからないけれど、1つより2つの方がより効果が強い感じがするのでは。「ww」とか「ワラ」とか「←」でさえなければ、個人的にはどちらでもいいです。

 

これ以上「笑笑」の話をすると、どうでもいい相手からの直球「今度ご飯行きましょう」が、好きな人の「今日は何時に来る?笑笑」を上回ることはないという身も蓋もない本音を書いてしまいそうなので終わります笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑

 

おやすみなさい

今読みたい『専門知は、もういらないのか 無知礼賛と民主主義』

こんばんは。今回はこの本の読後感です。よろしくお願いいたします。

専門知は、もういらないのか

専門知は、もういらないのか

 

 

さて、私はもう23年も私という人間をやっているので、流石に「自分の(特に精神の)状態」をある程度は察知できるようになってきました。

綻び始めにはまず、帰宅時に床に投げ置いた鞄を翌朝まで放っておくようになります。家に食材があるのに料理する気になれずスーパーで惣菜を買って帰るようになったら、信号で言えば黄色の段階。

同じ頃、本を1冊読み切るだけの気力がなくなったり、何とか読んでもブログを1本書ききれなくなったりします。他人と連絡を取るのも億劫になってLINEは溜める一方、残念なことにツイッターとかいう140字以内の独り言は余裕で読めるし書けてしまう。余裕のなさを誤魔化す力すら失い、最近元気ないね?と誰かに言われてしまう頃にはもう私の状態は「赤」で、食べる・寝る・泣く・会社に行くことしかできなくなっています。

問題は、この状態になったらヤバいというバロメーターは随分見えてきたものの危うさに気付けたところでそれを打開する有効な対策が無いというところにあるのですが、ともかくこんな風に、私は私について一種の専門家ではあるのかなと思うわけです。人は普通それほど他人に興味がないので、自分以上に自分のことを考えている人はいません。

 

前置きが長くなりました。ここからが本題です。

私が『専門知は、もういらないのか』を読んだきっかけは上記のいわんこさんのツイートで、感想もほとんどこれに尽きるのですが、本文を交えつつもう少し詳しく書いてみようと思います。

 

期待の仕方を間違える私たち

さて、私の好きな書籍『知ってるつもり 無知の科学 (早川書房)』等でも散々言われている様に、世界はあまりに複雑で、一人の人間がすべてを理解することは到底できません。

私たちは知識のコミュニティに生きており、コミュニティを機能させるには認知的分業が必要だ。コミュニティに共有の知識を確保するには、個々の問題について信憑性のある有識者が専門家の役割を果たす必要がある。(中略)専門家の信頼性を確保するほうが、あらゆる人に専門家になることを求めるより間違いなく実現性が高く、実際それはこの社会的問題を解決する唯一の方法だ。(『知ってるつもり』pp.206-207)

非専門家に限らず、自身が何かしらの専門家であったとしても自分の専門外のことは他の専門家に任せなければ生きていけないのです。そして私達は、その専門家の頼り方を間違ってしまうことがあります。

(以下、頁数のみ示す引用の出典はすべて『専門知は、もういらないのか――無知礼賛と民主主義』です。)

かかりつけの医師が正しい処方箋を書いてくれると信用することと、医療のプロならアメリカが国民皆保険制度をもつべきかどうか判断できると信用することは違う。大学教授が学生に第二次世界大戦の歴史をきちんと教えるだろうと信用することと、歴史学者なら戦争と平和についてアメリカ合衆国大統領に助言できるはずだと信用することは違う。(p.209)

つまり何かの専門家に対してその専門知識だけでは答えられないはずの問いをぶつけることは、専門家を正しく信用していることにはなりません。

残念ながら、自分の専門外の意見を求められたときに、謙虚に辞退するという責任を果たせる専門家はあまりいない。(p.233)

専門家に対する誤った形での期待、それと専門家の「期待に応えたい」「わからないと答えて無知だと思われたくない」という極めて人間的な気持ちが重なったとき、間違いが起こります。先述の通りその間違いは本来専門家だけが責められるべきものではありませんが、反知性主義、反エリート主義の人々は鬼の首を取ったように「これだから専門家は信用ならん」と言うかもしれません。

 

予言を求めてしまう私たち

また私たちは、専門家に専門外の質問をするのと同じかそれ以上に、彼らに対して予言を求めます。

また別種の間違いは、専門家が自分の専門の範囲にとどまってはいるが、説明ではなく予言をしようとするときに起きる。予言に重きを置くのは科学の基本ルールを破ることだがーーー科学の仕事は説明することで、予言することではないーーークライアントとしての社会は、説明よりも予言を求めることが多い。もっとひどいことに、一般の人々は予言がはずれると専門知が役立たずだという証拠だと見なす。(p.213)

特に今回の新型コロナウイルスの流行では、毎日「どこまで感染が拡大するか」「いつ収束するか」「今後の経済は」など、皆が先の見えない不安を抱える中で専門家の予言を求める声が多いように感じます。

ただ当初は感染方法も明確に判明していない「新型」ウイルスだった為、感染学やウイルスの専門家も当時わかっていた情報だけを基に「マスクには予防効果がある/ないだろう」「感染爆発は起こる/起こらないだろう」と一応の見解を発表し、その内容は人によってかなりバラけている印象でした。とにかく情報が足りなかったのだと思います。

私も2-3月上旬は「COVID-19はとても小さいのでマスクの繊維も通り抜ける」という感染症専門家のコメントを真に受けて、マスクをあまり熱心に着けていませんでした。でも今は、不織布マスクを医療現場にまわすために政府が国民に布マスクを配布するくらい、不織布のマスクには不安解消以上の効果がある……ということになっていて、私も外出時は必ずマスクをつけています。

 

予言が外れても専門家は専門家

私が信じた「マスク着用はコロナ対策にならない」とか「老人が肺炎をこじらせて死ぬ程度のウイルスだからそれほど恐れることもない」という流行初期の専門家の見解は、確かに間違っていたのかもしれません。

感染は夏までには収束するだろうという見方も一部ではあったはずです。景気の落ち込みも危機的ではないと語る経済の専門家もいたように思います。コロナ禍で実際に起こったこと、起こりつつあることは、彼らの見解や予測を大きく外れてきているようです。

でもだからと言って、もうその専門家に敬意を払わなくていいことにはならないし、専門家達の意見に耳を傾けるのをやめた方がいいと結論付けるのは愚かなことだと思います。

最も重要なのは、予測がはずれても、それは専門知を評価する参考にはならないということだ。(p.241)

専門家による予測が間違っていたとしても、専門家が一般の人々より多くの知識を有しているという事実をさかのぼって否定することはできない。(p.242)

 

コロナの感染拡大が続く今、そして現在の緊急事態が収束に向かいアフターコロナの世界が動き出すとき。初期の限られた情報をもとに発表した見解が誤っていたり、「予言」を求められ間違いをおかしてしまったりした専門家が、余裕を失った人々から一方的に責めを負い、彼らが積み上げてきた知識や功績がすべて否定されることがないといいなと思っています。専門知を提供しようとしてくれる専門家の声を、声ばかり大きいエセ専門家や知識の錯覚に陥った一般人がかき消してしまうことも増えてほしくありません。

私には祈ることとこの本を紹介することくらいしかできませんが、少なくとも自分はどんなときも専門家へのリスペクトは忘れないようにしたいです。

専門知は、もういらないのか

専門知は、もういらないのか

 

どんなに自分を知ったつもりになっても明日の自分の機嫌すらまともに予測してコントロールできない私が、複雑な世界がこのあとどう動いていくのかなんて想像できるわけもないので……

謙虚に、バランス良く、冷笑主義を抑え、情報は選びながら、全力で専門家を頼って生きていきます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。おやすみなさい。さやかでした!

 

 

追伸。『知ってるつもり 無知の科学』にも今回書きたかったことがそのまま書かれていたので載せておきます〜〜

「個々の市民が複雑な社会政策に対してしっかりとした情報に基づく判断を下すだけの知識を持っていることはめったにない(たとえ本人たちがそう思っていたとしても)」

「すべての市民に投票権を与えることで、優れた判断に役立つ専門家の知識がかき消されてしまう可能性がある」

私が嫌いなあの子も誰かの可愛い娘だから

私は『水曜日のダウンタウン』という番組があまり好きではない。あの番組に限らず、自分が笑われている側に絶対なりたくないと思うような番組をあまり見てこなかった。

 

誤解してもらいたくはないのだが、私はお笑いが好きだ。漫才は好き。コントも好き。でも昔から、いじめといじりの際どいボーダーラインを攻めるような、笑われる側がちょっとしんどそうに見える種類の笑いが苦手だった。それはテレビだけでなく自分の生活の中でも同じで、高校生の時に付き合っていた彼氏が「いじられキャラ」の男子を扱き下ろすのを見て一瞬で恋が冷めたこともある。この話は今日はいいや。

 

さて、今の彼氏はその『水曜日のダウンタウン』が好きで、苦手な私も何度か一緒に見た。少し前には「あまり売れていない芸人に酷い仕打ちをして最後に番組名を明かしたら泣くか怒るか喜ぶか」みたいな企画があって、残酷なことをするものだと思った。怖かったし腹が立ったけど番組に出られて嬉しいと泣く、もういい歳をした男性たちを見ていて私も泣きたくなったのを覚えている。あれを笑える神経を持つ人はすごいと思う。でも、そういう人が少なからずいることは理解できる。

ひどい話だとは思うし私は楽しむ気持ちよりも痛みを感じてしまうけれど、でもあれが好きな人が世の中にはいて、ブラックなお笑いはその需要を満たしているにすぎない。そしてああいうことがある世界だと分かった上でお笑いの世界に飛び込んでいく人がたくさんいる。だから、私が距離をとれば済む話だ。

 

……済む話なのだが、先述した理由で別のある日の『水曜日のダウンタウン』も見た。取り上げられていた話題も具体的なセリフも、拾い聞き程度にしか覚えていないけれど、それでも「坊主の女を抱ける/抱けない」という話は確かに印象的だった。それに対して「妻は夫の性玩具じゃない😡」とブチ切れているツイートを偶然見かけて思うところがあり、ブログを書くに至っている。

 

うに on Twitter: "他の芸人は「坊主だと勃たないから無理」か。おわーーーーーーーその発想はなかった!!!なるほどね!!!!!妻は夫の性玩具だもんね〜〜〜〜そっかそっかーーー!!!!家父長制と女性蔑視がやばい。脳味噌無理やりダウングレードしないと辿りつかない発想だったすごい。流石日本の男は違うな。"

芸人の個人的な嗜好の話に対して「妻を性玩具として見ている」とか「坊主の女性もいるんですよ!彼女たちを傷つけるな!」とか、いろんな怒り方をしている人がいるみたいだった。

 

同じようないくつかのツイートを見て、私の抱いた感想は3つある。まず、シンプルに悪口が凄くて怖い。

2つ目は、今後自分が抱かれるとか抱かれないとか心配する必要がないであろう数人の男の性的嗜好をそこまで叩くのはなぜなのかという疑問。芸人が発した「坊主の嫁だと勃たない」という言葉は直接「男は女(嫁)を性玩具として見ている」という事実を示してはいないはずだ。

3つ目は盛大なブーメランなのだけれど、この手の話は原則「嫌なら見るな」で決着すべきだと思う。「刺さる人には刺さる内容」になればなるほど、熱いファンと強烈なアンチが生まれる。これは全然テレビに限らなくて、たとえばツイッターのアカウントAを好ましく思っているフォロワーBと、Aが何を言っても気に入らず隙あらば揚げ足をとってやろうと毎日Aを監視しているアンチCがいるとする。Bの対極にいるのはCではなく、Aの存在を知らない人だ。あるいは知っていても興味がない、または興味がない人と同じ振る舞いができる人だと思う。BとCは共にAのツイートが刺さる人で、違うのはその刺さり方だけ。

 

私も件のツイートがある意味刺さってしまった為にブログを書いているわけだが、ここで『水曜日のダウンタウン』に話を戻す。私にはあの番組も「坊主の嫁は抱けない」という言葉も刺さらないけれど、刺さる人がいるのはわかっている。良い意味で刺さって笑える人がいる一方で、望まない形で刺されて悲しむ人がいることもわかる。

自分から刺さりに行っておいて「刺されて痛い人がいるのがわからないんですか!?」という怒り方をする人がいるのも、わからないでもない。特にテレビ番組のように多くの人の目に触れるコンテンツに対しては、良くないものと感じたら批判することは必要なのかもしれない。発信者の自律には限界もあるだろう。

 

ただ私は「坊主になった嫁は抱けない」「女は若いのが一番」などの個人的な発言に対して逐一目くじらを立てて許しがたいと怒りを表明することを、あまり好ましく思っていない。自分が好きになれない何かを罵るよりは、目をそらして距離をとる方が回り回って自分の好きなものを守ることになるような気がしている。

誰かが好きなものは誰かの嫌いなもので、私の好きな誰かは他の誰かには嫌われているかもしれないし、私が嫌いなあの子だって誰かの可愛い彼女かもしれない。

「嫌い!」「許せない!」「地上波で流すな!」と自分の気に入らない何かを強く否定したくなったとき、自分のお気に入りが誰かに同じように全面的に否定されていたらどう思うかを考えてみるのは大事なことだと思っている。

 

勿論こんな風に書いてきた私だって、一部のフェミニスト(多分)の自由なツイートについて好ましくないと断じているわけで。好ましく思わないものについて2,000字もかけて語り、さらにそれが自分自身に対する盛大なブーメランになっているという大バカ者です。

強い言葉は使わなかったつもりだけれど、「嫌なら見るな」という大原則に逆らう回になってしまいました。最後までお読みいただきありがとうございます。次は何か好きなものについてのポエムを書きたいと思っています、おやすみなさい、さやかでした。