こんばんは。今回はこの本の読後感です。よろしくお願いいたします。
さて、私はもう23年も私という人間をやっているので、流石に「自分の(特に精神の)状態」をある程度は察知できるようになってきました。
綻び始めにはまず、帰宅時に床に投げ置いた鞄を翌朝まで放っておくようになります。家に食材があるのに料理する気になれずスーパーで惣菜を買って帰るようになったら、信号で言えば黄色の段階。
同じ頃、本を1冊読み切るだけの気力がなくなったり、何とか読んでもブログを1本書ききれなくなったりします。他人と連絡を取るのも億劫になってLINEは溜める一方、残念なことにツイッターとかいう140字以内の独り言は余裕で読めるし書けてしまう。余裕のなさを誤魔化す力すら失い、最近元気ないね?と誰かに言われてしまう頃にはもう私の状態は「赤」で、食べる・寝る・泣く・会社に行くことしかできなくなっています。
問題は、この状態になったらヤバいというバロメーターは随分見えてきたものの危うさに気付けたところでそれを打開する有効な対策が無いというところにあるのですが、ともかくこんな風に、私は私について一種の専門家ではあるのかなと思うわけです。人は普通それほど他人に興味がないので、自分以上に自分のことを考えている人はいません。
前置きが長くなりました。ここからが本題です。
何回かツイートしていますが、この『専門知は、もういらないのか』はまさにいま読まれるべき本だと思います。いまほど専門知が必要な、そして我々が専門家に対する敬意を忘れないことが重要視される時代はない。 https://t.co/Z6LzzNdB4O
— 引きこもりいわんこ (@otaku_dead4545) 2020年4月5日
私が『専門知は、もういらないのか』を読んだきっかけは上記のいわんこさんのツイートで、感想もほとんどこれに尽きるのですが、本文を交えつつもう少し詳しく書いてみようと思います。
期待の仕方を間違える私たち
さて、私の好きな書籍『知ってるつもり 無知の科学 (早川書房)』等でも散々言われている様に、世界はあまりに複雑で、一人の人間がすべてを理解することは到底できません。
私たちは知識のコミュニティに生きており、コミュニティを機能させるには認知的分業が必要だ。コミュニティに共有の知識を確保するには、個々の問題について信憑性のある有識者が専門家の役割を果たす必要がある。(中略)専門家の信頼性を確保するほうが、あらゆる人に専門家になることを求めるより間違いなく実現性が高く、実際それはこの社会的問題を解決する唯一の方法だ。(『知ってるつもり』pp.206-207)
非専門家に限らず、自身が何かしらの専門家であったとしても自分の専門外のことは他の専門家に任せなければ生きていけないのです。そして私達は、その専門家の頼り方を間違ってしまうことがあります。
(以下、頁数のみ示す引用の出典はすべて『専門知は、もういらないのか――無知礼賛と民主主義』です。)
かかりつけの医師が正しい処方箋を書いてくれると信用することと、医療のプロならアメリカが国民皆保険制度をもつべきかどうか判断できると信用することは違う。大学教授が学生に第二次世界大戦の歴史をきちんと教えるだろうと信用することと、歴史学者なら戦争と平和についてアメリカ合衆国大統領に助言できるはずだと信用することは違う。(p.209)
つまり何かの専門家に対してその専門知識だけでは答えられないはずの問いをぶつけることは、専門家を正しく信用していることにはなりません。
残念ながら、自分の専門外の意見を求められたときに、謙虚に辞退するという責任を果たせる専門家はあまりいない。(p.233)
専門家に対する誤った形での期待、それと専門家の「期待に応えたい」「わからないと答えて無知だと思われたくない」という極めて人間的な気持ちが重なったとき、間違いが起こります。先述の通りその間違いは本来専門家だけが責められるべきものではありませんが、反知性主義、反エリート主義の人々は鬼の首を取ったように「これだから専門家は信用ならん」と言うかもしれません。
予言を求めてしまう私たち
また私たちは、専門家に専門外の質問をするのと同じかそれ以上に、彼らに対して予言を求めます。
また別種の間違いは、専門家が自分の専門の範囲にとどまってはいるが、説明ではなく予言をしようとするときに起きる。予言に重きを置くのは科学の基本ルールを破ることだがーーー科学の仕事は説明することで、予言することではないーーークライアントとしての社会は、説明よりも予言を求めることが多い。もっとひどいことに、一般の人々は予言がはずれると専門知が役立たずだという証拠だと見なす。(p.213)
特に今回の新型コロナウイルスの流行では、毎日「どこまで感染が拡大するか」「いつ収束するか」「今後の経済は」など、皆が先の見えない不安を抱える中で専門家の予言を求める声が多いように感じます。
ただ当初は感染方法も明確に判明していない「新型」ウイルスだった為、感染学やウイルスの専門家も当時わかっていた情報だけを基に「マスクには予防効果がある/ないだろう」「感染爆発は起こる/起こらないだろう」と一応の見解を発表し、その内容は人によってかなりバラけている印象でした。とにかく情報が足りなかったのだと思います。
私も2-3月上旬は「COVID-19はとても小さいのでマスクの繊維も通り抜ける」という感染症専門家のコメントを真に受けて、マスクをあまり熱心に着けていませんでした。でも今は、不織布マスクを医療現場にまわすために政府が国民に布マスクを配布するくらい、不織布のマスクには不安解消以上の効果がある……ということになっていて、私も外出時は必ずマスクをつけています。
予言が外れても専門家は専門家
私が信じた「マスク着用はコロナ対策にならない」とか「老人が肺炎をこじらせて死ぬ程度のウイルスだからそれほど恐れることもない」という流行初期の専門家の見解は、確かに間違っていたのかもしれません。
感染は夏までには収束するだろうという見方も一部ではあったはずです。景気の落ち込みも危機的ではないと語る経済の専門家もいたように思います。コロナ禍で実際に起こったこと、起こりつつあることは、彼らの見解や予測を大きく外れてきているようです。
でもだからと言って、もうその専門家に敬意を払わなくていいことにはならないし、専門家達の意見に耳を傾けるのをやめた方がいいと結論付けるのは愚かなことだと思います。
最も重要なのは、予測がはずれても、それは専門知を評価する参考にはならないということだ。(p.241)
専門家による予測が間違っていたとしても、専門家が一般の人々より多くの知識を有しているという事実をさかのぼって否定することはできない。(p.242)
コロナの感染拡大が続く今、そして現在の緊急事態が収束に向かいアフターコロナの世界が動き出すとき。初期の限られた情報をもとに発表した見解が誤っていたり、「予言」を求められ間違いをおかしてしまったりした専門家が、余裕を失った人々から一方的に責めを負い、彼らが積み上げてきた知識や功績がすべて否定されることがないといいなと思っています。専門知を提供しようとしてくれる専門家の声を、声ばかり大きいエセ専門家や知識の錯覚に陥った一般人がかき消してしまうことも増えてほしくありません。
私には祈ることとこの本を紹介することくらいしかできませんが、少なくとも自分はどんなときも専門家へのリスペクトは忘れないようにしたいです。
どんなに自分を知ったつもりになっても明日の自分の機嫌すらまともに予測してコントロールできない私が、複雑な世界がこのあとどう動いていくのかなんて想像できるわけもないので……
謙虚に、バランス良く、冷笑主義を抑え、情報は選びながら、全力で専門家を頼って生きていきます。
最後までお読みいただきありがとうございました。おやすみなさい。さやかでした!
追伸。『知ってるつもり 無知の科学』にも今回書きたかったことがそのまま書かれていたので載せておきます〜〜
「個々の市民が複雑な社会政策に対してしっかりとした情報に基づく判断を下すだけの知識を持っていることはめったにない(たとえ本人たちがそう思っていたとしても)」
「すべての市民に投票権を与えることで、優れた判断に役立つ専門家の知識がかき消されてしまう可能性がある」