どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

マッチングアプリについて思うこと

アプリを使っている人と話したときに自分の中で新鮮に思ったことを整理したく書き殴ります。酔っているのでおそらく自分では読み返さずに投稿します。そのつもりで読んでください、よろしくお願いいたします


少し前まで、自分はそこそこマッチングアプリをやってきた人間かと思っていた。社会人になってからできた彼氏2人との出会いはアプリだったし。今まで会った人数は数えていないけれど、たぶん20人強だと思う。記憶から消していて思い出せない人を入れても30人は超えないはず。でもマッチングアプリのことを語れる人って、大体もっと多くの人と会っているらしい。私なんぞ有識者の風下にも置けない

そんな私が初めてマッチングアプリに登録したのは大学生の頃だった。当時ツイッターには私より少し年上の「暇な女子大生」という匿名アルファアカウントがいたのだが、ご存知だろうか。私は彼女のツイートで某ィンダーを知り興味本位で登録したミーハーの一人だし、周りにも同じような友達が複数いたのを覚えている。元々マッチした人と会うつもりはなかったし、実際誰にも会わないまま退会。友達とマッチして大学で顔を合わせ「お前(笑)」となるのは楽しかったけれど、それだけだった

そして大学3年の冬。今から3年前。失恋して自暴自棄的に再開した某ィンダーで、友達の友達と繋がった。友達の友達ならおかしなことにはならないだろうと思ったし、彼の押しも強く、誘われるままにランチに行った。アプリの人と会ったのはそれが初めて。結果としては意気投合して、その後は飲み友達になった。おかげでアプリの人と会うハードルは下がったものの、彼と知り合ったことで満足してアプリは消していたはず。ここまで計2回登録して、会ったのは1人


その後、折に触れて登録しては1週間くらいでマッチした中から2人程度と会って退会する、というのを何度か繰り返した。登録するたびに思い出すのである。会う前の人間と雑談するのがストレスで、自分がいいねを押した相手とすらいつどこで会うかという約束に着地しない会話を続けられない私は、アプリに根本的に向いていないという事実を。そしてまたそのストレスに負けて1週間程度で退会する。忘れた頃に出会いを求めて登録し、以下略

 

前書きという体の長い自分語りが終わってここからが本題なのだけれど、前述のとおり私はアプリに登録しても2人程度、一番多かった回でも5人と会って退会してしまってきた。アプリの登録者数が何万人何十万人であろうとも、私が実際に会うのはその内数人だけなのである。ここに、私が他の人の話を聞いていて新鮮に思ったポイントがある

 

マッチングアプリについてよく言われるのが「アプリごとに特徴があるので自分に合うものを」という台詞だ。某ィンダーは遊び目的で某アーズは真面目な人が多いから、真面目な人は某アーズがいいとか。確かにそういう部分はあるのだけど、結局はすべて一人対一人の出会いになる。雑に言ってしまえば「人による」のだ

どんなに恋愛する気がない人が多いアプリだって、自分が興味を持って会った相手が自分に対して所謂遊びの姿勢をとらないのであれば問題がない。逆に、どんなに真面目に恋愛・結婚がしたい人が多いと言われるアプリで知り合ったって、自分が会った相手が自分に対して不真面目なら残念な気持ちになるだろう

 

私の中で会わない人はいないのと同じなのだなと、各アプリの解説を聞くたびに思っている。私が使ったことがあるのは某ィンダー、某アーズ、某カレデートあたりだけれど、どれを使っても会った人の属性?タイプ?には言うほどの差がなかった。某ィンダーは所謂ヤリ…クばかりと言われても、自分がそういう人に当たらないのでピンと来ない。多分わたしが左に流した中にそういう人がいたのだろうけれど、流してしまえばいなかったのと同じだ。真面目な恋愛をしたいなら某アーズが一番その層が厚いと言われても、いいなと思う人がそこにいなければ恋愛はできない。

「どういう登録者が多いか」を重視するのは、ある程度の期間そこにいてある程度の人数と会うことを前提とすればこそなのかなと思う。あるいは、できるだけ多くの選択肢から本命を選びたい願望があるとか。選択肢とは単なる会員数ではなく自分の求める条件に合う登録者数という意味で、これの多寡を気にすることがおそらく会員の層でアプリを選びましょう、というアドバイスに直結している

 

私みたいに結局人によるのだからどのアプリを使おうがあまり関係ないと考えること、アプリごとのユーザー層を重視すること、どちらが絶対に正しいということはないと思う。アプリによって相手に見せる顔を変える人も出会いには貴賎があると思う人も少なくないことはわかっていて、そういう人に対しては私の理は通用しないかもしれないので、結婚したいなら某ィンダーは違うという説は理解できる。理解できるので今は登録していない

 

ただ思うのは、「自分に合うアプリ」という表現が「自分と近い属性・趣味趣向を持った人が多いアプリ」を指すのであれば、それはある意味レッドオーシャンでもあるよねということ。書き殴りなのに長くなってしまったのでこれでおわりにするけれど、自分と似たような同性が多く、さらに検索条件を詳しく設定してターゲットを絞り込めるようなアプリに身を置いた場合、当然競争は激しくなる。自分(自分の好み)が外れ値にあたるような環境なら、自分を求める(自分が求める)相手は減るかもしれないが、それ以上に競う相手(迷いの元)も減るのである

人は選択肢が増えるほど決められなくなる。私のような優柔不断な人間は特に、闇雲に選択肢を多く用意することが幸せに繋がるとは限らない。自分が会いたいと思う人にとって大穴ポジションにおさまることを志向する戦略もアリなのでは?と思うわけです。おしまい

穴って変な意味ではないです

東京国立近代美術館「あやしい絵展」

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東京国立近代美術館で開催されている、「あやしい絵展」に行ってきました。

事前に日時指定予約無しで入場できる予約優先チケットを購入しており、開催期間中最初の日曜日、朝10時に突撃。1時間弱並びました。日時指定券を持っていれば日曜の朝でもほぼ指定時間通りに入場できている様子だったので、土日に行く予定の方は指定券がおすすめです。

 

「思てたんと違う」というのが最初の印象でした。このポスターを見てすぐチケットを衝動買い。事前情報をろくに入れていなかったのです。

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私は去年の秋に太田記念美術館の「血と妖艶」という企画展を見に行っていて、今回の「あやしい」という単語から血まみれで残酷な作品たちを連想していたのでした。

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月岡芳年 血と妖艶 | 太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art

「血と妖艶」は本当に血みどろの世界観でしたが、「あやしい絵展」は違います。いや、月岡芳年の無残絵も展示されている様に、全く違いはしないのだけれど、一部に過ぎないのです。

 

「あやしい絵展」において月岡芳年の作品は、まずプロローグにあたる第1章(幕末〜明治)に『魁題百撰相』が登場します。当時、時事ネタを直接描くことは御法度だったため、戊辰戦争の兵士は妖の顔を借りて描かれました。

そして個人的にすごく好きだったのが、第2章-3の展示。「清姫」「高野聖」等、モチーフごとに複数の人の作品が並ぶのが面白かったです。芳年の作品としては『和漢百物語 清姫』が展示されています。

 

このように、血みどろだったり、愛憎渦巻いていたり……あやしい(妖しい・怪しい)といった言葉から直接的に連想されるような作品も確かにあります。一方で、アルフォンス・ミュシャのポスター等、一見しただけではあやしさを感じにくい作品も数多く展示されています。これが私の「思ったのと違う」という印象に繋がりました。このポスター、後ろの女性の妙な表情が可愛い。

f:id:oyasumitte:20210404091601j:image(アルフォンス・ミュシャ,ラ・トスカ ポスター,三浦コレクション 川崎市市民ミュージアム「あやしい絵展」)

 

それから、個人的にツボだったのは同人誌や小説の挿絵です。
f:id:oyasumitte:20210404091549j:image(田中恭吉,死人とあとに残れるもの,和歌山県立近代美術館「あやしい絵展」)

f:id:oyasumitte:20210404091553j:image(谷崎潤一郎『人魚の嘆き』挿絵 水島爾保布「商人と人魚」,弥生美術館「あやしい絵展」)

ここ半年ほどは浮世絵にハマっていましたが、新しく掘り下げたいものが見つかりました。

 

さて、今回の展示のうち、特に人が立ち止まって見ている時間が長く、密になりやすい作品がいくつかありました。その内の一つが橘小夢の「刺青」。正面から写真を撮る隙がなかったので写真は少し曲がっていますが、寝ている間に女郎蜘蛛の刺青を彫られ、性格が変わった少女の姿が描かれています。

f:id:oyasumitte:20210404095224j:image(橘小夢,刺青,個人蔵「あやしい絵展」)

腕の確かさで評判の高い刺青師・清吉は(略)一人の美しい少女に出会う。見た目が美しいだけではない、男性を破滅に導く魔性を少女の中に見出した彼は、何としても彼女に刺青をほどこしたくなった。そこで彼女を薬で眠らせ、玉のような美しい肌に女郎蜘蛛を刺り込んだ。刺られる前は純真を装っていた少女だが、眠りから覚めるとともに彼女の魔性もまた花開いたのだった。(「あやしい絵展」会場作品紹介)

示唆に富む、と言うと途端に薄っぺらくなってしまう気がするのだけど、他に言葉が見つかりません。社会学におけるキャラ化とか心理学におけるピグマリオン効果とかを何となく連想しました。自分や他者が自分に着せたキャラクターに、望むと望まざるとに関わらず中身が寄っていく感じ。作品では「本性が花開いた」ことになっていますが、内→外、外→内、両方の作用と両方あるのかなと。


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続く2章-4には「表面的な美への抵抗」というタイトルが付いていました。明治期には「大衆的な美人のイメージが形成され」、「似たような女性が盛んに描かれるようになった」ことが、賛否両論の的となったそう。どこかで聞いたことがある話ですよね。

それもそのはず、「あやしい絵展」公式サイトの開催概要には、このようなコメントが。

「単なる美しさとは異なる表現」を深く掘り下げると、そこには共通して人々の奥底に潜む欲望が複雑に絡んでおり、今日を生きる私達にも響くところがあることに気づかされます。本展が日本の近代のみならず、現在の私達を取り巻くさまざまな表現、事象、価値観についても考える機会となれば幸いです

あやしい絵展 公式ホームページ

近年加速する「ボディポジティブ」「ネオかわいい」等、画一的な美の基準から外れた多様な美しさを認め合おうとする動き。

(「ネオかわいい」参考:CHAI - N.E.O. - Official Music Video (subtitled) - YouTube

日本の美術界では、近現代的・大衆的な美人のイメージが確立されるのと並行して「着飾った女性の表面的な美しさではなく、彼女らの感情や意志の表現を追究」する流れが起っていました。身体的な美の多様性を訴えるのと全く同じではありませんが、画一的な美に対して疑念を呈する点が共通しているように思います。

例えば、島成園の「無題」。顔に痣を抱え「運命と世を呪」う女性の、「世の中を見返してやろうという強い決心」が描かれています。

こうした、キレイの一言では言い表せない、見ていて心地良い美しさとは違う魅力をもつ作品を集めたのが「あやしい絵展」だったのです。

 

「あやしい絵展」、私は事前に情報を確認していなかったので思ったのと違うという印象は受けましたが、結果的にとても面白かったです。

 

そして「あやしい絵展」のチケットを買うと「東北を思う・春まつり・あやしい」の3つがキーワードになっている所蔵作品展も見られます(当日限り)。近代美術館の所蔵作品展はがっつり企画展に対応しているところが大好き。2年前にも春まつりを見に行きましたが、今年もすごく良かったです。合わせてぜひ。

 

ちなみに「あやしい絵展」は前後期の展示替え以外にも期間限定公開等があるので(下記ポスターの上村松園「焰」は4/4まで)、見たい作品がある方は企画展公式ページの作品リストをご確認ください。

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「あやしい絵展」

東京:2021/3/23-5/16 東京国立近代美術館

大阪:2021/7/3-8/15 大阪歴史博物館

あやしい絵展 公式ホームページ

「春まつり」

東京:2021/3/23-5/16 東京国立近代美術館

美術館の春まつり 2021 | 東京国立近代美術館

 

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10,000,000円分の愚痴

 

だそうです。そうだね。お金は大事だよね

わたしは時々「実家暮らしの男が憎い」などとツイートしてきたせいで、実家暮らしの人間を嫌っていると思われているらしい。この間ツイッターの相互に「さやかの嫌いな実家暮らしです!」と自己紹介されて笑ってしまった。すみません。嫌いとかじゃなくて、大好きか好きで言ったら好きです、実家暮らしの社会人さん

わたしは一人暮らしをしているけれど、東京に実家があったら普通そこに住むよねと思うので、実家暮らし即ち半人前みたいな論調で実家暮らしを批判するのもどうかなとは思う。個人的には、実家が都内にあってもわざわざ一人暮らしするタイプの人が大好きだけれど、しつこいようだがそれはあくまでも個人の好みでしかない。好きと嫌い、快と不快を、善悪とか優劣の問題にすりかえて語る行為はあまりセクシーではないので、その点には注意したいと思っている

 

私はこの春、大学生の頃から数えると一人暮らし7年目に突入した。実家は地方にあるのだが、父が単身で都内に住み部屋を余らせているので、そこに居候して家賃を浮かすことは、理論的には可能だ。父親とは仲も良いし、私は社会人になるタイミングでも全然普通にそこに住みたかった。父の方針が「子どもに絶対に一人暮らしをさせる」でさえなければ、きっとわたしも一人暮らしをしていなかった

世の中には私よりもずっと年上でも、親が実家を出るのを許さないという建前を語って自分の実家暮らしを変えられないものとする人がいる。一人暮らしにもそれなりの良さがあるけれど、わたしも親が心配するから〜とか言ってみたかったなとは少し思う。思うし、そうやって親のせいにして「本当は一人暮らしをしたいんだけど、、」みたいなことを言ってくる実家暮らしの社会人は確かに苦手だ。大人なんだから自分で決めてほしい。ただ、通勤圏内の実家で暮らす選択をすること自体は本当に自然だと思う

 

そう。東京に家賃をおさめずに住める家があったらそこに住むのは普通。実家暮らし、何にも悪くない

家賃補助の有無とか家にお金を入れているかとか、家事をするのが誰かとか、状況がかなり個別的な中で、一概に一人暮らしと実家暮らしを比べることはできないと思うのだけれど。それでも、大抵の実家暮らしは一人暮らしよりもお金が貯まりやすいはずで、家事から解放されやすいはずで、それが羨ましい。はっきり言って妬ましい

だから、実家暮らしの人にはどうか許してほしい。社会人4-5年目で実家暮らししてる人をなるほど…と思ってしまうこととか、実家暮らしの人を一律に自立していないと推定することとか、それくらいは許してほしい。実家暮らしなら30歳までに貯められたはずの約一千万円(ほんとか?)を自分が払うということに、その事実以上の意味を見出したがる一人暮らし勢のさもしさを許してほしい。一千万円の貯金と一人前認定はトレードオフ、ということにしておかせてほしい。前者が選択肢として存在する特権階級として、下々の「社会人5年目で実家暮らし…😅(俺も一千万貯めたい😭‼️)」という戯言を、どうか大目に見ていただきたい

 

実家暮らしで家にお金も入れず奨学金もなく現金以外の資産に投資をしているわけでもないのにお金が無いとか言う人のことはよくわかりません