どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

何を言えるかが知性で、何を言わないかが品性で

言葉は、誰かと話すためだけに存在しているわけではない。私たちは黙って考え事をするときにも絶え間なく言葉を使い続けている。

浮かぶように現れては放っておくとそのうちまた見えなくなったり、またふとしたときに戻ってきたりして自分の中を回っている言葉。そのうちどれを口にして何を口にせず内に秘めておくか、或いは無かったことにしようとするかは、その人らしさがよく表れる重要な問題だと私は思っています。その人らしさというか、それこそがその人自身であると言ってもいいのではないかと思っているほどです。

https://twitter.com/taguchi2_0_1_6/status/1183264102657019904?s=21

私はさやかのアカウントでフォローしている人にはそれぞれ「この人がこれについて語っているところが特に好き」と思うポイントがあるのですが、たぐちまるさんについてはそれが知性・品性に対する考え方です。「先のRT」が何だったのかは忘れてしまいましたが、このツイートでは私が「先のRT」に対してモヤリとした感情が見事に言語化されていて、これ以上もう何も言えない……と思ったことを覚えています。リツイートしたもののあまりにも続ける言葉が見つからず、かといって無言で投げっぱなしにするのもどうかと思い、重ねて他人(スピードワゴン小沢)の言葉を借りてくることしかできませんでした。

余談ですがこのように私がすべてを「」で括ったツイートをしたらそれは他人の言葉です。よかったら覚えておいてください。

https://twitter.com/taguchi2_0_1_6/status/1199417377466675200?s=21

また、こうして「いわゆる知性や教養」と語られるように知性や品性と遠からざるところにありそうな教養については、同じくツイッターでフォローしているいわんこさんの定義が好きです。

 

知性・品性以前の問題として

隙あらばツイッターを開いてしまう寂しい23歳OLなのでツイッターの話を始めると止まりませんが、何を書こうと思ってはてなブログのアプリを開いたのか思い出したので本題に入ります。

「何を言えるかに知性が表れ、何を言わないかに品性が表れる」、一般論としてそれは確かにそうだと思うのだけれど、最近私が気になったのはもっと具体的な、狭い範囲における言葉の問題。それは対人コミュニケーションにおいて、必要な一言が言えない/余計な一言が止められないというのは、等しく一種のコミュ二ケーション障害なのではないかということです。

コミュニケーションには多様なかたちがあっていいしそうあるべきだという話は今回一旦棚に上げます。たとえば言葉の通じない人同士がボディランゲージやその場のテンションだけで言葉の壁を乗り越えて交流するのも、長年連れ添った夫婦が言葉を交わさず阿吽の呼吸で理解し合うのも、素敵だとは思うけれど特殊な状況だし、私がしたいのは主に会社や学校などの日常世界でのコミュニケーションの話なのです。まあこれもある種の特殊な環境と言えそうですが……。

さて、私は知性と品性が表れるのは、言わなくてもいい中で何を言えるか/言わないかという問題なのかなと思っていて、多分それはレイヤーで考えるとわりと上位の話なんじゃないかと考えます。その下で基盤を成すのは言うべきことを言えるかどうかというコミュニケーション能力、もっと言葉を選ばずに言えば最低限度の礼節や良識。ここで言うべきこととは「ありがとう」「申し訳なかった」などの一言を想定しています。

 

謝れない人が守りたいもの

人がどうしても謝れない状況について考えたとき、まず頭に浮かんだのは昔何かのドラマで見たことがある、相手に謝罪することが己の非を認めることに繋がり裁判で不利になってしまうという立場に置かれた被告です。この人は確かに謝ることができないでしょう。

でも私達は普段誰かに訴えられた被告ではないし、おそらくそうなってしまうことを心配しているわけでもない。どんな状況であっても自分には全く非がないと被害者面をキメまくる人はもうお話になりませんが、100ではなくても一部は自分にも非があると感じていながら謝ることができない人というのも意外に多いなと思います。苦虫を噛み潰したような顔をしながら、なお責任転嫁するような言葉がすらすらと出てきたり、逆にだんまりを決め込んだり……。

立場とか尊厳とか、考えるところは色々あるのかもしれません。今の私の頭で私より少し長く生きているおじさん(とお姉さま)たちの思考を理解できるとは思えないので、おそらく私には見えない何かが見えているのだと思います。「目下の相手に対して自分の不注意や不備を詫びる」ことに対する大きなハードルが、多分存在している。

でも少なくとも今の私から見れば、謝れない人は謝れない人でしかないのです。反射で「ごめん!」が出るおじさんの方がずっと大人だと感じます。社会で生きる大人が「ありがとう」「助かった」「申し訳ない」このあたりの言葉を素直に言えるかどうかは知性ではなく、大人としての成熟度の問題だと思うのです。言うまでもなくあくまでも私の尺度では、ですが。

 

余計な一言イコール悪意、ではない

ここまでは言うべきことを言えるかどうかという点を軸に書いてきたつもりですが、次に書きたいのは逆の、言うべきでないことを言わずにいられない人についてです。

先程、知性をもって「何を言えるか」品性をもって「何を言わないか」問題は上位のもので、言うべきことを言えるかどうかはその下にある問題ではないかと書きました。そう思う一方で、2つはまったく別のものかもしれないと思ってもいます。そこにあるのは、コミュニケーションの種類の違いです。ツイッターで不特定多数に向けて発信する言葉と、相手がある状況で伝える言葉は同じではない。

目の前の相手に言わない方がいいことを言わずにいられない人、あるいはそれが言うべきでない一言だとわからない人に欠けているのは、品性ではなく想像力だと思います。

たとえばセクハラに類することを言うおじさんが「こんなことを言ったら今はセクハラって言われちゃうかな」と薄気味悪い笑みを浮かべるとき、「気持ち悪いおじさんとして気持ち悪いことを言って不快にさせてやろう」とは思っていないはずです。そんなに邪悪な人ではない、馬鹿なのと邪悪なのは違うと私は信じています。

私の上司は所謂「一言余分な人」で、その余計な一言で円滑なコミュニケーションを阻害していることに自覚的ではありません。何より最も困るのは、彼自身はおそらくそれを良かれと思って言っているのであろうこと。

朝早く会社に行けば「早すぎない?」昼に英語の勉強してたら「どこで使うの?」……上記ツイートのように何か一言言ってやりたいというよりは、部下に些細なことでも何か声をかけたいという思いからきているものなのだと思います。悪い人ではないから。

でも私の感想はツイート元の方と同じ「無視してくれ」の一言に尽きます。「ちょっと来るのが早すぎない?もっと遅くてもいいよ」に「オフピーク通勤したいので…」と返しつつ「このくだりあと何回やればいいですか?私より早く来てる人だっているし、時間外手当つけてるわけでもないし、ピーク時の満員電車が本当に嫌なんです、好きで早く来てるんです、いけませんか!?」という喉まで出かけた喧嘩腰の台詞を飲み込んだことは、一度や二度ではありません。

それは彼が一言余計なのは出勤時間に関することだけではないから。私の中で上司はもう「一言余計な人」になってしまっていて、だから彼の一挙手一投足、一言一句に神経を逆撫でされてしまうのです。これが悪循環なこともわかっていて、改善するべく色々と手を打っているのですが、それはまた回を改めて書きたいと思います。

 

「ありがとう、あなたに頼んでよかった」

もう3,500字も書いてしまったのでまとめに入ります。今回書きたかったのは「何を言えるか」で見えるのが知性で「何を言わないか」で見えてしまうのが品性で、必要なことが言えるかどうかでわかるのは成熟度だと思う、という話でした。

それともう一つ最近ひしひしと感じているのが、(相手の気分を良くするという意味で)言った方が良いことを、思ったときに躊躇わずに言えるのも大切な力だなということ。

これは非日常なシチュエーションだったので随分大げさな話に見えますが、たとえば思いがけない親切を受けたときの少しオーバーなくらいのお礼とか、その人でなくてもいい仕事を頼んだあと、結果を受けて最後に「あなたに頼んでよかった」と添える一言とか。

「ありがとう」「ごめんなさい」は言えて当たり前の、必要な言葉だと思います。それに比べると「あなたに頼んでよかった」「あなたのおかげで助かった」は少し過剰です。余分と言ってもいい。でもそれで相手の気分や自分との関係性が言わないよりも良くなるなら、言うべきだと私は思います。情けは人の為ならず、です。

今日も長々と書いてきましたが、とにかく私は誰に対しても気分を損ねる余計な一言ではなく、良い方向に余剰的な言葉が口をついて出る人でありたいと思っています。ついこの間反面教師なんていない方がいいと書いたばかりですが、仕方がないので余計な一言がやめられない一部の諸先輩方を反面教師としつつ。

 

ちなみに時と人と場合と関係性によりますが、下記のようなものも言った方が良い言葉に数えられるかもしれません。時と人と場合と関係性によるので、使うときはくれぐれも注意してください。

最後までお付き合いありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。

【ご報告】私事ではありますが、

こんばんは。さやかです。

今日はタイトルの通り、私事ではございますが、この場を借りてご報告を致したく存じます。

私 さやかは、2019年11月29日を持ちまして、かねてよりお付き合いをさせていただいておりました Amazon アソシエイト・プログラ厶から、¥575の紹介料をいただきましたことをここにご報告申し上げます。

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これがブログを開設して11か月、アソシエイト・プログラムに承認されて7か月で初めての収入となります。マネタイズが目的ではありませんし、何ならはてなブログpro、独自ドメインの登録費用を考えると余裕で赤字ですが、それはさておき本当に嬉しいです。575円分のAmazonギフト券はもちろん、ここで紹介する書籍の購入費にあてたいと考えています。

ブログを読んでくださる方、さらに私のリンクからお買い物してくださった方、本当にありがとうございます!

以上、簡単ですがご報告まで。次はまたいつも通りの長文になる予定です。

おやすみなさいませ、良い週末を。さやかでした。

「オタクは性質」と彼女は言った

私にとって「オタクなので」というフレーズは万能な建前のようなものだ。気乗りしない誘いには「最近ちょっと忙しくて」とだけ言って断れば角が立たないのと同じで、「オタクなので」に特に意味はないけれど、言っておけばとにかく何でも丸く収まるような気がする。少なくとも私が発する「オタクなので」は精々リズムをとるための枕詞か、発言の角や棘を取り除くためのヤスリのような言い回しに過ぎず、ほとんどの場合はそれが無くても成立する。

 

オタクになれない僕たちの

大人になれない僕らの強がりをひとつ聞いてくれ〜〜〜という、同世代とカラオケに行くと高確率で誰かが歌うこの歌(曲名はカサブタ)は、どうやら昔のアニソンらしい。

実は私は、オタクなのでというフレーズを頻発する割にはなんのオタク行為も遂行できていない。オタクといえばまず思い浮かべられるであろうアニメやゲーム、漫画をあまり嗜まずに大人になってしまった。だから先に挙げたカサブタが一体いつ頃のどんな作品のテーマソングだったのかということは未だによくわからない。

J事務所や坂道Gの沼は学生時代に浅瀬を通ってきたけれど、もう課金することはおろか出演するテレビ番組さえも見ていない。服や化粧品なども好きだけれど、特段語れるような熱量や見識を持っているわけでもない。

それこそ学生の頃はよくいるコスメアカウントや美容アカウントの如く、隙あらば百貨店のコスメカウンターを渡り歩き、新作のチェックを欠かさなかった時期はある。でもある程度自分に似合うものを見つけて満足して、就職して自由に使える時間も減って、そうしたらコスメパトロールも私の趣味から消えた。

洋服も同じで、今でも自分の好きなものを探して買うのは好きだけれど、基本的には自分が何を買って何を着るのかということにしか興味がない。そして化粧品と同じで、ある程度自分の好きなブランドが固まってくるとそこしか見に行かない。たまにフラッと歩き回って開拓することはあるけれど、それでも大抵の場合はいつものお店に戻って買うことになる。自分が欲しい商品や欲しいテイストをもっているブランドを探す時のリサーチには労力を惜しまないけれど、それが見つかったあとの私はそれ以外の目新しいものに対して比較的興味を失い、保守的になるのだ。怠け者と言ってもいいかもしれない。

今、誰かに趣味を聞かれるととても迷う。学生時代の趣味の筆頭だった一人旅は、社会人になってからしていない。夏ごろまでよく乗っていた自転車も、ジムに通い出してから月1程度になってしまった。秋頃に一番していたことといえば資格の勉強とジム通いだけれど、これを趣味と言っていいのかどうかはよくわからない。やらねば、という切迫感から続けているものだからだ。

さて話を戻して、以上のような状況から私は、可処分時間が長い学生の頃にハマって時間やお金を多く費やしたものに対して、社会人になっても同じようにオタクであり続けられるのはひとつの才能だと思うのだ。

 

趣味を駆逐する不本意な活動について

さて話を戻して、以上のような状況から私は近頃、オタクであり続けることは才能だと思うようになった。可処分時間が長い学生の頃にハマって時間やお金を多く費やしたものに対して、社会人になっても同じような熱量を注げるのはシンプルにすごい。

少し前にツイッターで「婚活女子にしてはいけない質問」という印象的なツイートを見た。それっぽい単語で検索しても見つけられなかったのでうろ覚えだが、ざっくり言うと「婚活で出会った相手に余暇の過ごし方を聞くのはやめろ!」という話であったと思う。なぜなら、婚活中の人間が余暇にしていることは婚活だからだ。あなたが婚活で相手と会っているその時間こそ、本来相手が趣味や自己研鑽や婚活以外の交際活動に費やしていた時間なのだ。

私も先月婚活を齧るような生活をしてみて実感したが、ノルマ的に初対面の人間と毎週毎週出会い、そのために本来自分がしたいことをする時間的・体力的な余裕を失うことは、精神的な余裕の無さに直結する。「休みの日は何をして過ごしていますか?」と聞かれると発狂しそうになる感覚はわかったような気がした。

「ノルマ的に会う」と言うと「会いたくないならやめれば?」と言う人が湧きかねないと思うので先回りしていっておくが、婚活に関して会う前のマッチングの段階で「あ♡好きかも♡」となる人としか会わないつもりなら、そんなんだから婚活する羽目になっているんじゃないかと思ってしまう。好きな人や会いたい人としか会わなくていいのは出会ったあとの話で、まずは対面してみなければお話にならない、そして会うためにはそれなりに様々なコストが避けられない形でかかるものだ、というのが私の考えだ。

随分話が逸れた。とにかく言いたかったのは、不本意でもやらなければならないこととか、自分の為に自分がすべきだと思う活動が、趣味に費やす時間だとか何かのオタクになり得るだけの余裕を奪っていくこともあるということだ。暇な女子大生ではなくなった私たち会社員がオタクであり続けるためのカギは、やはり日中働いて疲れたあと眠るまでの数時間よりは、休日の過ごし方にあるのではないかと思う。

 

土日の片方は一人でいたいオタク

わたしは自分が日曜日にジムに行くことも、その帰りにスーパーで買い物をして1週間分の料理を作ることも、誰か自分以外の人と約束して会うのと同じように「予定」として数える。もっと単純に言えば、土日のどちらかを誰かとランチしたり飲みに行ったりする予定で埋めたら、できればもう1日は自分の好きなように過ごす時間として確保したいと思う。

そして私は自分自身が何のオタクなのか自分でもわからないままに、これがオタクっぽい感覚であることはわかっている。「オタクだから土日のどちらか一日は一人で家にいたい」、ほらね、とてもしっくりくる感じ。

この自分一人ですると決めていることを予定に数えるということ、または何も決めず気ままに過ごす日を設けようとすることについて、共感できる人とできない人がいるのはわかる。端的にいえば、オタク的か、オタク的でないかの違いだ。

幸運なことに大抵の場合は、これを人に打ち明ける必要はない。断るときは「お誘いありがとう、でも明日は(ジムに行く)予定があるから会えない」、これで済む。ただ食い下がってその予定を聞きたがる相手だと参ってしまう。

そして正直に「明日は昼間ジムに行って夜は料理をしたくて」と伝えたときにあっけらかんと「じゃあ会えるじゃん!」「それは予定ないって言うんだよ」と言われてしまったときの絶望感は計り知れない。超えられない壁、埋められない溝を感じる。

誰かとの約束でなくても、自分がしたいと思うこと、すべきだと考えていることに費やすと決めた時間は予定として扱いたい。そしてそれを妨害されることが自分にとってストレスになるらしい、ということも最近わかってきた。

私がそうした自分だけの予定を曲げてでも会いたいのは基本的に好きな人だけなのだが、それをすると確実に私は生活が疎かになり精神を病んで、何もかも良く転ばない。それがわかっているだけで上手くいくのなら、今までもこれからもこんな風に悩んだりポエムを綴ったりする必要はないのだけれど!

 

そんな話をしていたとき、今でもちゃんと好きなもののオタクをしている友人が悟ったように言った言葉を今回のタイトルとさせてもらった。「オタクは性質だからね。辞めたり卒業したりできるものじゃないから」。オタクは才能でも病気でもなく性質らしい。一生の付き合いだ。

あーあ、私も早く土日のどちらかはできるなら一人で好きなことをして過ごしたいと独身の今は思っているようなオタクな性質を持つ人と結婚して、イオンの近くにマイホームを建てて、休日の買い物はミニバンで大混雑のイオンに行くような典型的な幸せを手に入れたいな〜!

 

……というわけで、私の書くものが好きだと言ってくれる人しか読んでいないようなここでわざわざ言う必要もないのだけれど、過去のツイートの微炎上について少し弁明したい。わたしは140字できっちりと言いたいことを言い切れず2,3ツイートで一連の何かを書いていることが多い気がしていて、恣意的に過去のツイートを切り取って持っていかれると、傍からは自分が随分違う人格を持つように見えるのだなと面白くもなった。しかしネットのそうした切り取り文化と他人から突然剥き出しにされる悪意にはやはり怖さが勝る。それを再確認した週末だった。炎上マーケティングをする人たちのメンタルは凄いな。

あと不思議と多くの人の目には見えていないようだけれど、そもそもあのツイートは「」で括っているし、私の自己紹介も、わざわざ私のアカウントページに飛んできて過去ツイートを遡ったりクソリプを送ってくれた一部の人たちの目には入らなかったらしい。わたしがツイートするどんなポエムもあなたのことではないから安心して眠ってほしい。

 

そんなこともあり、小心者のオタクなのでしばらくブログをツイートで流すのはやめます。最後が特に言い訳がましい長文になりましたが、ここまでお付き合いいただきありがとうございます。おやすみなさいませ。さやかでした。