どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

思わせぶりなことを言う人間に、弱い。

私は、言葉を上手につかう人間に弱い。

私が日々ツイッターやブログに晒しているポエムを少しでも読んだことのある方であれば、人間などと大きく言ってみたところで無論これは私にとって異性である男性のことであり、弱いとはつまり「すぐ好きになっちゃう♡」をオブラートに包んだ語であるということは容易に想像していただけるはずだ。

ツイッターには、そんな私がコロッと逝ってしまうような素敵な言葉を紡がれる人がたくさんいる。その筆頭が、ブログ「もはや日記とかそういう次元ではない」の主、熊谷真士さんである。

2016年に初めて「スタバでダベる女子大生に対し畏敬の念を禁じ得ない」を読んだときの衝撃は忘れない。熊谷さんの文章に出会えただけでもツイッターを使っていた意味はあったと思える。更新頻度は決して高くないのに、定期的に見に行っては全ての記事を何度も繰り返し読んでいる。やっていることは完全にオタクだし、もしこれがビデオテープならきっともう擦り切れていた。今がインターネットの海に生きられる時代でよかった。

さて最近になって、そんな熊谷さんが書いていた「言葉の意味は、文脈の中にしか存在し得ない」という文句が私に深く突き刺さった。その言葉自体の文脈は下記ツイート内のリンクの先に存在しているが、一度読みに行くとここには戻ってこられなくなると思うのでご注意いただきたい。

大事なことなのでもう一度書くが「言葉の意味は、文脈の中にしか存在し得ない」。

たとえば男の人に思わせぶりなことを言われ、それをきっかけに好きになったのに、こちらが好きになった途端その人が離れていくという状況。私がバカみたいに繰り返しているありがちな恋愛パターンである。その、思わせぶりな台詞だと思われたものを思わせぶりな台詞にしてきてしまったのは、他でもない私自身だったのだ。

好きな人が夜中に電話をかけてきて「こういう時に君の声を聞きたくなるっていうのは、そういうことだと思うんだよね」と言った、それを思わせぶりなセリフだと思ってしまったのは私が彼のことを好きだからであり、彼の言う「そういうこと」は私が彼に望んでいた文脈におかれて初めて思わせぶりな言葉になってしまったのである。「そういうこと」という語それ自体は何も思わせぶりな言葉なんかではなかったのだ。

「誰にでも言うわけじゃないよ」だって同じだ。2人の女に言っていたって、10人の人間にに言ったことがあったって、それが誰彼見境なく言っているものでなければ「誰にでも言うわけじゃない」は決して嘘ではない。「誰にでも言うわけじゃない」に「君だから言うんだ」という意味までを勝手に重ねたのは私自身の「彼に特別扱いされたい」という願望だったのだ。私の中にある願望という文脈上におかれて初めて彼の「誰にでも言うわけじゃない」は思わせぶりな言葉となってしまったのである。

 

 

 

……いや、そんなわけあるか。

冷静に考えてみてほしいのだが、「こういう時」がどういう時なのかは相手の事情なので伏せるとして「君の声が聞きたくなる」と同じ文脈上の「そういうこと」に期待しない人間がいるだろうか。いるのか、そうか。ごめん。私は期待した。

しつこいようだが、私は言葉を上手に効果的につかう人が好きなのであって、言葉を使って相手を口車にのせて自分の思い通りにしようとする人や相手に喋る暇を与えないほどお喋りな人が好きなのではない。どちらかといえば言葉数は少ないくらいで良く、丁寧に的確に、選ぶように発してくる人が好きだ。

言葉少なに、ちょっとクセのある言い回しをし、とにかく絶妙な間をもたせてくる人を前にすると私はどうすることもできない。会話のペースを相手に握られて、思わせぶりに聞こえてしまう台詞を浴びせられ、気づけば期待に塗れて好きになっている。もう期待なんかしないと毎回決意してるくせに馬鹿だなあと我ながら思う。

酔った人間の言葉をまともに取り合うなんてどうかしている。私も確かにそう思う。でも想像してみてほしい。好きな人が夜中、急に電話をかけてきて「君の声が聞きたくなった」だとか「かわいい」だとか言うのだ。酔っているのが空気でわかったって、聞かなかったことにも気にしないこともできない。

ずるい。ずるいよなあ。無論、この文脈におけるずるいとは「私が簡単に好きになってしまう魅力がある」という意味です。こうしてまたずるい人間に気持ちを掠めとられていくのが人生ならもう22年で十分だな。もうやめたい。

好きになった方が立場が弱いから待っててなんて言われたら待ってしまうし、会えないくらいで泣けるほど弱い女でもないから今日も会社に行く、本当は何もしたくないのに。バカみたい