珍しく駅で待ち合わせた日に限って寒い。多少遅れても一度ホテルに寄って上着を取って来ればよかった。
改札を出たと連絡するのとほぼ同時に、ばさりと被された硬い布に視覚を奪われ声を失いかける。それがよく知る匂いのコートでなければ、恐怖で動けなくなったかもしれない。振り返るより早く、何でそんな薄着なのと悠長な声が降ってきた。
今朝出たときには暖かったのだと答えながら、わたしのものではない上着を肩に掛け直し、立てた襟の中でスンと息を吸う。ここで要らないとつき返したところで受け取られないことも、疾うに知っているのだ。
例えばこうして並んで歩く間。それから、車で迎えに来た日。カウンターに隣り合って座る夜。そういう目が合わない状況でこの人は、少し図々しさを増す。うっすら罪悪感をおぼえる話をするときに横並びの構図を選ぶ癖は、とうとう十年変わらないらしい。
「それは無理かも」
外面のいい人がわたしに見せる厚かましい一面が好きだった。今となっては、ただ可愛いと思うことしかできない。両手を広げてその甘えを受けいれることはもうできなかった。
「なんで」
臆面もなく問われ、答えに迷う。顔を見なくていい状況を選んで持ち出した話を断られて驚いている、そういう矛盾がこの人の可愛いところだ。普通に考えたらおかしなことでも、わたしには受け入れられると思っている。歪だとしてもそれは、わたしに寄せられる信頼の一つの形だった。だから。
もう好きじゃないから、とは言いたくなかった。
立場を換え、相手に旨みのない話に仕立てて突き返す。逡巡の後、それはおれに何のメリットが、と言いかけた口元が歪むのを見上げていた。やや気まずそうに落とされる視線を待って頷きながら、この三十五センチの身長差に呼吸を奪われてばかりいた日々を懐かしく思う。
「そういうことか」
そうだよ、わたしにメリットが無い。半分は事実だった。正確に言えば、無くなってしまったのだ。でも目敏いこの人にそうと気づかれたくない。何を今さらと食い下がられたら、上手に躱す自信はなかった。
「で、何食いたい?」
「焼鳥とか?」
「……こういう急に寒くなった日は鍋って決まってんだよ」
じゃあ聞かないでという反論は、声になる前に自分で立てたコートの襟に吸い込まれて消える。この上着も要らないと言ったのに、本当に話を聞かない男だ。いや、今日もわたしは言わなかったのだったか。
言っても言わなくても結果が同じなら、言わなくても言ったのと同じということにはならないだろうか。ならないということは、言っても仕方ないから言わないという諦め方も、多分わたしの思うよりずっと、良くなかったのだろう。
実際のところ鍋でも何でもよかったし、本当に寒かったので、押しつけられた上着の重みにもほっとしている。この人の強引さに甘えてきたのは、他でもないわたしだった。
いつか読んだ、嗅覚は感情を司る大脳辺縁系に直接繋がる唯一の五感だという話を思い出す。この匂いに埋もれて眠るのが確かに好きだった。言いにくそうな顔でされる話は、ほとんど助手席で聞いた。このコートと、同じ匂いのする車内で。
「このあと二人って入れます?……十分、いや五分でつきます」
短い電話の間に手際良く止められたタクシーに乗り込む。上着越しにもシートの温もりを感じて、まさにこれだと思い至った。私がこの人に与えていたいのは、事もなげに用意されたこういう乾いた熱だ。ちょうどいい温かさ。それだけ。
あなたにはずっと、わたしに好かれていると思っていてほしい。誰かに、少なくともわたしには好かれているという安心感がこの先も、あなたを孤独にしないといい。