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ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

小説『BUTTER』と おじさんのメロさについて

男女問わず、メロい人がいないと物語はハッピーエンドあるいはそれが信じられるような後味のいい終わり方をしないなと思う。主人公がメロいこともあるし、そうでない人がメロいこともある。 

 

『BUTTER』で言えば、篠井さんは確実にメロい。週刊誌の記者をしている主人公・里佳の勤務先よりも大きなメディアの会社にいて、貴重なネタを流してくれる「客」。別れた妻についていった娘が一人いるバツイチの年上男性。

 

わざとではないし、急いで離したら後ろめたい既成事実になる気がして、里佳は胸を寄せたまま歩き出す。篠井さんの硬い二の腕を受けて自分の乳房は柔らかくつぶれ、バターが溶けるように真横に広がる。篠井さんてどこに住んでいるんですか?と尋ねたら、水道橋だよ、という答えが返ってきた。

「あの、全然どうでもいいんですけど、好きな食べ物ってなんですか」

「カステラかな。最近、セブンイレブンの袋入りのやつが美味しいって気づいたんだ」

かわいい、と小さくつぶやいたら、篠井さんは決まり悪そうに暗闇の中に白い歯を光らせた。

 

時々一緒に食事しては情報を流してもらうばかりで、男女の関係にはならない。与えられるのは何もネタばかりではないのに、娼婦のような態度さえ見返りとして求められることがない。

利害が一致していると言うにはあまりにアンバランスな関係。それが言い得ぬほどメロい。

 

 

そういえば先日、好きなバンドのドキュメンタリー映画を見てきた。バンド崩壊の可能性を孕んだ、全員が苦しい一年間の実録。会議の様子はいじめが問題になった日の学級会みたいな空気感で、これは一体何の地獄を見せられているのかと思った。

そこにあって尚「(理解や共感が足りないと思われるだろうが)やるしかない 頑張るしかないと俺は思う」と「俺が悪い」とをまっすぐに言えるのが、バンドのリーダーで曲を書いて歌い、概ね活動内容も決めている人だというのが、私にとっては最高にメロかったのだ。

 

「頑張るしかない」「俺が悪い」のメロさの根源は、バンドのメンバーを、スタッフたちを食べさせていくという意思にあると思う。

必要だと思えば最も厳しいことを言う。関係性によってはパワハラとかモラハラとか、いろんな名前で批判されかねない現実も呑んで、やさしい責任放棄を選べずに、路頭に迷わせないために必要だと信じる選択を重ねる。

そしてこれが逆説的にハラスメントとされる理由にもなることは承知で書くけれど、その言葉に説得力を持たせる実力を、言う本人がもっていなければ、私としてはメロくない。



私の中で「メロい」という感情は、父性とそれを効果的に発揮する力を持ち合わせた人に対する憧れだ。

一方的にお世話になっていて大好きな年上男性のとる「私なんかもうおじさんだから」というポーズとか、グループが壊れそうなときに「まず全部俺が悪い」と言いきるリーダーの潔さとか、大変にメロい。

キャラクターで言えば、例えばワールドトリガーなら遠征選抜試験中の諏訪隊長とか二宮隊長がメロいし、ハンターハンターならゴンやキルアを殺させないときのヒソカはかなりメロい。ジョジョならもちろんこの人が筆頭、ブローノ・ブチャラティ。

「『任務は遂行する』『部下も守る』

『両方』やらなくっちゃあならないってのが

『幹部』のつらいところだな

覚悟はいいか? オレはできてる」

── ジョジョの奇妙な冒険 第5部 黄金の風

 

ブチャラティは一言切り出してくればもうそれだけで大変メロいことがわかりやすいのだが、『BUTTER』の篠井さんみたいなタイプは台詞だけ抜いてきてもいまいち伝わらない。

 

「あの、一度、聞こうと思っていたんです。篠井さん、どうして、いつも私にネタを投げてくれるんですか?もちろん、ありがたいです。感謝はしています。人として尊敬もしています。でも、時々不安で仕方なくなるんです。私はあなたに何かを返せる立場にないから。その、失礼かもしれませんが、自分が女を利用しているんじゃないかって。こんなこと言うのは最低ですが、今に見返りを要求されるんじゃないかって」

彼の目をできるだけ見ないようにする。里佳の混ぜる真っ白なバタークリームに、篠井さんの手で明るい色の卵液が少しずつ、注がれていく。

「分離するから。続けて。止めないで」

それが攪拌を意味するのだとわかるまでに、数秒を要した。

「これまでのことはそういう意味じゃないよ。俺はその、そういうことはもう五年近くしていないんだ。誤解させたとしたら、謝るよ」

篠井さんが細く注ぐ卵液を里佳は懸命にバターに混ぜていく。先ほど彼が含ませてくれた空気をできるだけ潰さないようにして。黄色と白が優しい色合いに変わっていく。

「いやらしい言い方だけど、自分が誰かに何かをしてあげて、感謝してもらいたかった。そういうことに飢えていてね。おっさんの自己満足だよ。なんていうか、君は知り合いの週刊誌記者の中では一番正直で信用が置けそうに見えた。同時に嘘がつけなくて、器用に客とつながれないタイプに見えたから。」

 

聞かれないことは話さないし聞かれたことにも場合によっては答えないのがメロいおじさんなので、長々と引用してしまったが、これです。

「おっさんの自己満足だよ」

自分の利益にはならないのに、相手の仕事に必要な情報を与え、この人に私が下着姿を見せることはないだろうと思うところまで安心させ、 所有するマンションの一室を差し出し、その上でさらに申し訳ないと言われてしまえば、感謝に飢えているだけだ自己満足だと笑うのだ。人徳と言い換えてもいいかもしれないとさえ思う。

本心がどこにあるかは関係なく、スタンスとして、完全に自分の我儘であり、それに付き合わせて申し訳ないと思っているという、そのポーズの取り方がメロい。

 

 

小説『BUTTER』の主題は当然、篠井さんのメロさではない。モチーフは首都圏連続不審死事件(木嶋佳苗事件)。殺害容疑のかかった被告女性を取材する週刊誌の女性記者が、その仕事に大きな影響を受けていく。

介護と仕事を両立する母親、その夫だった父親、結婚した学生時代の親友、結局可愛い部下と後輩に、同業の恋人。

必要だった余剰なもので満たされる生活、己の身体のままならなさ、結局放り出せない他人の視線。

 

これといって何も残せないまま、年を重ね、おそらくは子供を作らないまま、いつかは一人で死ぬのだ、この部屋か、もしくはここによく似た場所で。そうはっきりと自覚した。

「たった一人で死ぬことがあっても、私はたぶん誰のことも恨んだりしないよ。誰かがやってくるのを待たないで、自分のお金で材料を買って、食べたいものを自分で作って、好きなように食べてそれで死ぬの」

ある鮮明なイメージがひらめいた。最後の日が訪れるまでに、力いっぱいのごちそうを作って、誰かをもてなしたい。幼いころ絵本で見たような、七面鳥の丸焼きや砂糖衣が溶けていくケーキ。考えただけで、胸がときめきで満たされる。堅実な家庭料理で誰かを労わるのは柄ではない。でも、自分一人のために作るのにも、もう飽き飽きしていた。

たったひとつわかっているのは、

 

たったひとつわかっていること。それだけはっきりしていれば、「いつかこの決断を後悔するときがくることはわかって」いても、その決断をしてもいいのかなと思わせてくれる小説だった。



一方で、コナンが園子のコネと赤井さんや安室さんの協力とをフル活用して解決する事件があるように、ごくせんで大江戸一家三代目のおじいちゃんが出てこないと収まらなかった事態があったように、メンヘラが幸せになるストーリーには理解のある恋人がふっと湧いて出るように。

もしも助け舟を出すメロい人がいなかったとして、同じような大団円を果たして迎えられるだろうかと、考えずにもいられないのです。

 

そして現実に、メロい人は当たり前には存在しない。篠井さんが里佳に対してメロいのには「一番正直で信用が置けそうに見えた」からという要因がある。里佳がメロくあるに相応しい人であったからこそ篠井さんがメロくあってくれるのであって、やはり、ちゃんと生きる、恥ずかしくない生き方を積み重ねていく、それ以外に道は無いように思う。

それに、生きていくからにはメロつく側からメロい側に成っていきたいとも思います。

 

あなたの中で、唯一確かなことは何ですか?

メロい人はいますか?あなたがそうなる予定ですか?

 

柚木麻子『BUTTER』、今は日本よりイギリスで売れている本みたいです。良ければぜひ。