どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

自分を良く見せようとする人々よりもっと自分を良く見せようとしてしまう私たち

自己肯定感という言葉が広く流行って久しい。元々はカウンセリングや心理学の領域で提唱された概念で、定義はさまざま為されてきたが、現在の自分を概して肯定的に認める感覚のことであるというベースは共通していると言える。

 

しかし流行の波にのって自己肯定感という言葉が独り歩きしていく中で、本来の意味とは異なる場合にもその語が用いられるようになった。また、自己肯定感、自尊心、自己愛や自信、これらは自分に対する肯定的な感情であるという点が共通しているためか、根拠の有無も含めきちんと区別されていないことが多い。特にインターネットで人目を引くために用いられる場合や、商業的に利用されるときには。

脱毛していない肌も二重整形していない目も、必ず幸福や成功を遠ざけるわけではないのに、広告はまるで脱毛して整形するのが生きるために必要であるかのように人の不安を掻き立てる。同じように自尊心や自己肯定感も、積極的にそれを獲得し保持できなければ不幸になると言わんばかりの扱いがなされていることがある。ネット記事も書籍も、幸せになるためにはそれが必須と言わんばかりだ。言ってしまっている人もいる。

 

そんなふうに言葉が広く使われるようになり、自己肯定感が本来の意味から誤解されていくのは、素人が語り手になるからだと勝手に思っていた。しかし、自己肯定感や自尊心とそれに類する自己に肯定的な姿勢とを混同して語るのは、アカデミックな領域でも起きてしまうことだったらしい。

格差は心を壊す 比較という呪縛

現代の一般的な心理学では、自尊心に高い価値がおかれている。自尊心は心の健康や幸福の大前提であり、学校の成績向上や人生の成功にとって不可欠であると考えられている。自尊心によって自分の潜在力を十分に発揮できる自信がわいてくる。自分を特別だと信じることができれば、本当に特別な存在になれるという。しかし、それは本当だろうか。

(p.100『格差は心を壊す 比較という呪縛』)

心理学者たちは長く、自尊心という尺度で測られる感情について、実際の能力等の評価に基づく裏付けのある自尊心と、防衛的な自己誇示(社会的地位の低さや差別的な扱いによる自己不信に陥らないようにするための反応)とを区別できていなかったという。

学問的に他人を見る研究でさえそうなのだ。素人が自分のこころに何かはたらきかけようとして為す場合に、自分には自己肯定感が必要だと思う人が手っ取り早く取り込んでしまうのが、健全な自尊心というよりも自己誇示になってしまったり、拗れた自己愛になってしまったりするのは仕方がないとも言える。

自分に対して自信や自尊心を持つことは、それが現実離れしておらず、他人との共感や良好な人間関係を伴う限り好ましいことだ。しかし自尊心によって、他人の気持ちが理解できなくなり、自分の欠点を認めるどころか逆に否定ばかりする。あるいは批判に対して激しく反発する。いつも自分のことや自らの出世、人前での外見や体裁しか頭にない。ここまでくると自尊心はかえって危険となる。度を越した自尊心は病的で不健全である。それは自己愛にほかならない。(p.113)

自分を特別な存在であると信じる気持ちは、自尊心というより自己愛だ。自尊心の中には確かに自分を高く評価しようとする面があり、自尊心と自己愛は地続きになっている。

自己肯定感については、自分は誰かより優れていると思い込む力のことではない。良い部分も悪い部分も含めて、ありのままの自分をそのまま認める感情である。

「他人から見て私が美しかろうが醜かろうが、私は私(として存在していい)」というのが自己肯定感で、「私は美しい」という思い込みは自尊心のはたらき、他人にも美しい人として扱われようとするのは過剰な自尊心、自己愛だ。

人々の“価値”の差が際立ってくると、社会的地位でお互いを品定めするようになる。自己愛を強めることは、自信喪失や劣等感に打ち勝って社会的に生き残るための究極の闘いだ。それはまた、社会的な不安や臆病、自己不信を生み出す環境への適応でもある。(p.118)

 

リチャード ウィルキンソン,ケイト ピケット著『格差は心を壊す 比較という呪縛』(2020年)は、不平等な社会が人々をいかに不安にさせ、自信を砕き、妄想や中毒に陥らせ、個人や社会の問題を拡大させるかを解明した上で、その改善策を提示している。統計データや多くの研究を裏付けとしており、同著『平等社会』に寄せられた批評に答えていることもあってか、とても丁寧に組み立てられている。提示される策の実現が難しそうなところはマイケル サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』にも似ているが、帯に「息苦しいすべての人へ」とあるとおり、丁寧な解説によって、読む人を個人的苦痛を相対化する効果のある問題理解へと導く良著であると思う。

 

本書は「3歳の子どもの理解能力を決めるのは家庭の所得」など、所得格差に関する話題に多くのページが割かれている。多少の高所得はすべてを解決しないことは同じく本書で「2番目に裕福な人もうつ病と無縁ではない」と示されるが、それは貧困が引き起こす問題が軽視される理由にはならない。

下記は本書で貧困について書かれたものだが、現代の貧困における問題は単純な生活苦だけではないということに加えて、相対評価の重みが示されている。

社会的地位の低さによる影響と貧困の影響は混同されることが多い。一般的に考えられている貧困の波及経路は、日当たりが悪くて狭苦しい住宅や栄養価の低い食料の摂取など物質的な環境を通じたものである。社会が豊かになるにつれて物質的水準はそれほど問題にならなくなったが、社会人として義務や責任を果たしているか、“社会的排除”の対象にすべきかどうかを判断する指標として引き続き重視されている。したがって、現在の先進国ではほとんどの場合、貧困は相対的な基準で計測されることが多い。EUでは、国ごとに所得の中央値の60%未満で生活している人々が貧困層と定義されている。重要なことは他人と比較した場合の物質的な水準、つまり相対的な貧困である。“社会的排除”に多くの注目が集まっているが、貧困の経験で最も屈辱的なことは人より劣っていることが一目で分かることである。(p.234)

 

貧富と同じように、美醜もまた絶対的というより相対的な評価を伴って自覚されるものだ。そして醜いことは貧しいこと以上に一目でわかりやすい。

私はあの人(たち)より美しくない、普通の人たちよりも美しくないという劣等感は自尊心を蝕む。そして何が“普通”の基準となるかといえば、ある一定の基準に照らした際の美の実際の中央値ではない。標準になるのは人が目にする他人の姿だ。それも自分より下の階層は透明化した、主観的な世界の。

他人とは、現実で目の当たりにする自分以外の人だけではない。画面越しに出会う、人並外れて優れた容姿を職としている人々をも含んでいる。さらに悪いことに、写真や動画の加工によって実際より優れた容姿を顕示する人々の、その作られた美しさも相対評価の比較対象として取り込んでいるのだ。実態より良く、価値のあるように見せかけた他者の姿を、実態のひとつであるように認識してしまう。

 

容姿は一目でわかる上に劣等感を抱きやすいものとしてわかりやすいが、それに限らず、インターネットを通じて誇示できるものすべての“普通”が実態よりも上振れしているのが現代だと思っている。

社会的地位への不安は不平等の広がりとともに拡大する。不平等な社会ほど自己顕示が強まるという事実は、不平等が社会的評価への不安を高めていることをも裏付けている。その結果、私たちは自分自身を実態より大きく見せかけようとしてしまう。(p.110)

大体の人は、自分の生活の良い部分だけを切り取って世の中に見せるし、自分の外見が最も良く見える写真だけを選んで載せる。一番いいところを、実際より良く見せる努力で磨きをかけた上で共有する。一番いいところ、それも実際より良く見える世界ばかり目にして、その上で切り取っていない自分の生活を見たらどうだろう。一番美しい瞬間ではなく、加工もなしで鏡に映る自分を見たらどうだろう。自分は特別に可愛くて幸せだなどと、誰が思えるだろうか。

社会的評価の脅威におびえながら生活することは、心身ともに疲れる。それは達成不可能なシシューポスの重労働(果てしない無駄な仕事)だ。そのうえオンライン上にある自分のアイデンティティ情報を自分自身で四六時中、収集・整理しなければならないとなれば、さらに困難さが増してくる。(p.156)

自分は容姿も人並み以上に良いし、生活は人並み以上に充実しているのだと自分でも思いたいし、できれば他人にも思われたい。自己肯定感は獲得だとか爆上げだとかいう表現が似合うようなものではないと今でも思っているけれど、確かに他者との比較を棚に上げて自分は自分と肯定するのは難しい。

現代より自分の見せ方が重視され、コントローラブルなものとみなされた時代はないと思う。できるとされていれば、できていなければ個人の能力不足あるいは怠慢であるということになりやすい。しかし、適当な自己肯定の難しさ、その困難が単純に個人の能力や努力不足によるものとは言えないことは、本書でも示されているところである。

 

人間の能力や知性、才能には生まれつき差があり、それによって社会的な階段をどれだけ高く上れるかが決まる。こうした考えが、社会的な階層制度を正当化する一般的な根拠となっている。その前提には、私たちは“実力主義”の中で生きており、能力が階層を決めているという思い込みがある。(中略)こうした考えが深く浸透しているために、私たちは社会的地位によってその人の個人的な価値や能力、知性を判断しがちである。これは他人の評価だけに限らない。自分自身を判断する場合も同じように考えている。社会の頂点に立つ人々は、自分が“その地位にふさわしい資質”を持っていると信じている場合が多い。それと同じように社会の底辺の人々は、現在の自分の立場は能力不足によるものだと考えている。(p.256)

 

所得や資産の格差について、それが社会的な格差を誇示するために使われ、優越感や劣等感を助長していることが問題であると著者は指摘する。

不平等の拡大は、社会階層の頂点に立つ人は他人から重視され、底辺に近い人は軽視される社会風潮を助長するという。私たちは社会的地位でお互いを判断しやすくなり、そのことをわかっているからこそ自分が他人からどの階層の人間と見られているのかについて、さらに不安を募らせるようになる。

 

自分については良いところからだめなところまでよく知ってしまっているけれど、他人のそれは良いところばかり目にすることになる。無意識のうちに、他者のことは実態より良く勘定してしまう。その構造を認識しているのといないのとでは、息苦しさの程度が随分違うはずだ。

ありのままの自分を、優れて見える他人を知りながら意識的に肯定することは、思うより難しい。そして無理にそんな強引ポジティブを通そうとすれば、自己愛の穴がそこら中にあいている。

 

人はよく見えるものだ。自分が人より優れていると思えなくて当たり前だ。そういうふうにできているのだから。

それは自分以外の人も同じで、私たちが少し実態より良く見せた生活を、私たちの実態だと思って劣等感を抱く誰かがいる。その誰かがまた実際より少し良く加工した自分の姿を載せることで、別の誰かの中で美しさの平均値が少し上がる。そうやって私たちは、皆で手を取り合って茨の道を進んでいるのだと思う。

 

あなたが今自分は不幸せだと感じているなら、それはあなたの自己肯定感が低いせいではきっとない。幸せになるためのチケットとしての自己肯定感なんか、探したってどこにもない。

もちろん、自己肯定が難しくなるメカニズムを知ったところで、不幸をすべて構造のせいにしたらそれはまた別の不幸の始まりなので、結局バランスだよね。

自己肯定感の無さという“気づき”をまず与え、そこにジャンキーな無責任全肯定を注ぎ込んで満たして自己愛モンスターに育てる恋愛系インフルエンサーとか自己啓発アカウントみたいなものが嫌いすぎて、本には自己肯定感の五文字は一度も出てこなかったかもしれないのにずっとこんな話をしてしまった。

 

最後までお付き合いいただきありがとうございます。「息苦しいすべての人へ」という帯のとおり、人にすすめたくなる面白い本でした。ぜひ。

『格差は心を壊す 比較という呪縛』

The Inner Level: How More Equal Societies Reduce Stress, Restore Sanity and Improve Everyone's Well-being