どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

地獄への道は善意で舗装されている

 

あなたを尊重してくれない人との縁は切るべきです。

つらいならいつでも逃げ出せば良いよ。

気が進まないことを無理にしなくていいの。

あなたを理解しない人の言葉は無視しよう。

太っていてもファッションはいくらでも楽しめるわ。

何歳になっても結婚はできるから焦らないで。

 

大丈夫、ありのままのあなたを認めてくれる人が必ずどこかにいる。あなたはそこで幸せになれるから。

 

コウペンちゃんが怖い

聞いていて心地よい言葉を紡げば人が集まってくる。コウペンちゃんみたいなキャラクターが流行るのは、みんな褒められたくて認められたくてたまらないからだ。

コウペンちゃんは本当にすごい。表紙からブッ飛ばしている。「寝て起きたの?すご〜い!!」。

コウペンちゃん (KITORA)

コウペンちゃん (KITORA)

  • 作者:るるてあ
  • 発売日: 2017/10/19
  • メディア: 単行本
 

そして私は、コウペンちゃんに代表されるような、どう切り取っても優しく見える全肯定、そこに透けて見える無責任感がずっと苦手だ。

 

冒頭で並べたような耳に心地良いフレーズも同じ。一見優しそうでありながらどこまでも無責任な言葉を吐ける人が、インターネットにはたくさんいる。

 

つらいならいつでも逃げ出せば良い(けれど、もしも不快に思うことすべてを避けていくのなら、どこかで歯を食いしばって踏ん張れる人には多分ずっと敵わない)。

インフルエンサーの言葉に刺激を受けて、自分の実力をきちんと評価してくれていないと感じる会社をやめてもいい(けれど、「リターンを得るためにあえてリスクをとった」その人生を生きていくのは彼らでなくあなた自身)。

標準より太っていてもファッションは好きなだけ楽しめる(けれど、小手先の着痩せコーデで細く見せようとするくらいならダイエットした方が「似合う」「楽しい」の幅はきっと広がる)。

何歳になっても結婚はできる(けれど、もしも子どもが欲しいなら男女ともに年齢を重ねるほど様々なリスクが高まることは覚悟しなければならない)。

 

このような「けれど、」の後に続く耳障りなことを、大人になってから教えてくれる人は多くない。特に昨今のハラスメント過敏な世間において、パワハラだの時代錯誤だのと言われかねない正論を説いてくれる人は減る一方だろう。

 

ありのままの自分を愛してくれる人

「つらいならいつでも逃げ出していい。逃げ出してもあなたの価値は損なわれない。でも人生には何回か踏ん張った方が自分のためになるタイミングがある……とはいえ、あなたが生きていてくれることがまず私たちの幸せなのよ」というのを、徹底的且つバランス良く子どもに理解してもらうのが育児の目標なのかなと、未婚独身ながらに思う。

 

他にも、原則として自分に良くしてくれる人は大事にすべきだけれど、不自然に甘い話が降ってきたら「え、まって😂そんなにおいしい話をどうして独り占めしないで私に!?」と首を傾げる必要があるということだとか。オゾンで血液クレンジングと聞いたときにまず「え、まって😂オゾンってまさか理科で習ったあのオゾン?」と反射的に構える力だとか。

そういうリテラシーって大人になる前に家庭なり学校なりで身につける必要があって、その土台を用意するのは親なのかなあと思っている。未婚独身ながらに。

 

それにしても、寝て起きてえらいって、生きているだけでえらいって何?言われて嬉しい?本当にありのままで愛されることなんて、両親以外に期待するのは難しくない?……と私は思ってしまうのだが、これもどこかで誰かの傷を刺激してしまう可能性があるのだろう。

確かに、少なくとも肉親は自分が病気なり我儘なりで働けなくなっても「あなたが生きていればいい」と言ってくれるだろうと信じられるのは幸せなことだ。どうしようもなく何もかも投げ出したくなったときにも、そういう人たちの顔が浮かんで思いきれず、何もなかったように会社と家の往復を続けられてしまう。

 

 

ただ今は「生きてるだけでえらい」に対して「ばかにしてるの?」と思ってしまうくらいに余裕がないだけ。恵まれた状況にありながら、そうだね、えらいよねと笑うだけの余裕が今の私にないのだ。

 

 

話が逸れてしまった。

とにかく「あなたは何も我慢しなくていい。ありのままで幸せになれる」と言ってくれるネットの向こうの誰かはあなたの人生を好転させようとはしてくれないし、「コロナ禍にあなたの身の安全を最優先しないクソ男は即刻切りなさい」と説く婚活コンサルはあなたを結婚させてはくれない。

何もかも自己責任で片付けられる世界はしんどいけれど、そのつもりで行動していた方が後から何かを悔やんだり誰かを恨めしく思ったりすることは減らせるように思う。コロナ禍の活動自粛もこれだけ公的に要請されていたって、後からどんな風に梯子を外されるかわからないのだ。

 

 

あたたかい無責任 つめたい無責任

さて、そろそろ散らかった話を丸めていきたい。

私は優しい言葉をいつも無責任だと感じているけれど、同時にその無責任さが心地よいこともある。

わたしが心身共におしまいになっているとき「今はゆっくり休んで」と言ってくれた人がいなかったら立ち直るのはもっと遅かったかもしれないし、「自分を大事にして」と言ってくれる人たちがいなかったら自分が本当はずっと悲しかったと認めることはできなかったかもしれない。

 

 

最近、友人が私に「ゆっくり休んで」と言ってくれるのは、私がそうして休んだあとまた一人で歩けることを無責任に信じてくれているからこそなのかなと思うようになった。

 

私が休んでいる間に誰も私の人生を進めてはくれないし、私が友達に「ゆっくり休んで」と声をかけても彼女の人生を代わりに進めておくことはできない。でもそうやってお互いにお互いが立ち直る強さを持っていると信じて、大丈夫だよって無責任でも背中をさすりながら言い続けるのが優しさなのでは?と考えている。

 

優しい言葉って多分ある程度無責任にならないと掛けられないものばかりで、無責任なことが悪いわけじゃない。その優しさに縋りたい日、その優しさを差し伸べたい日が多分誰にでもある。少なくとも私にはある。

でも誰かの優しい言葉を自分の何かしらの行動や選択に繋げようとするとき、それが友情や愛情が根底にあって本当に自分を思ってかけられた言葉なのか、聞き心地だけ良い言葉なのかは、自分の責任において判断すべきだと思うのだ。

 

「地獄への道は善意で舗装されている」

“The road to hell is paved with good intentions.”

 

陰謀論を語る人も、やたら退職を煽る動画配信者も、マルチ商法紛いのビジネスを展開するオンラインサロン主催者も、このご時世にフォロワーの男にリスクの高い職場恋愛を勧める婚活コンサルさんも、赤ちゃんを抱っこしたまま見えない敵と戦い続けているキャリアコンサルさんも、その気もないのに「あなたと結婚する」と言う人も、きっと自分の言葉を信じて動いてくれる人を不幸にしようとは思っていない。きっと。でも彼らの発する自分にとって聞き心地の良い言葉の根底にある無責任さに気付かず、無闇にそこにベットするのは危ういことだと思う。

ただし、耳に心地良いだけの言葉があるのと同じように、正論らしく耳障りだがポジショントークでしかないような話もある。それも自分で取捨選択していくしかない。

 

自己責任の範囲を広げるのは確かにしんどいのだけど、誰かを恨みながら生きていくのはもっとしんどいような気がする。もし信じる相手を間違えたと気付いたときには、そこで踏み止まって、間違えた分だけは自己責任で引き受けて人生を立て直していくしかないのだ。私もそう。

 

 

優しさってざっくり言うと全部無責任で、そこにずっとモヤりとしていたのだけど、愛ある無責任とそれ以外があるのかなという結論に落ち着きました。これからもわたしは大事な人たちには無責任に「ゆっくり休んで」「まずご自愛」「幸せになって」と言います。自分が言われたときはそこに愛がありそうだったら素直に受け止めて頑張ります。

 

長くなりました。最後までお読みいただいた方、お付き合いありがとうございます。

おやすみなさい。さやかでした