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ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

ヒトは棲息地を都市に移した。先史時代の本能を携えて。

幾多の実験や観察から得たすべての数字が、まさか人間は事実や数字やデータに動かされないことを示しているなんて。これは人間の頭が弱いからでもなければ、どうしようもなく頑固だからでもない。私たちが影響を与えようとしている人の脳が何百万年も前からの産物であるのに対して、大量のデータ、分析ツール、高性能コンピュータが入手しやすくなったのは、ほんの2,30年前のことだからだ。(中略)確立された意見をもっている人は、時に頑として考えを譲らない。たとえその意見をぐらつかせるような科学的証拠を突きつけられたとしても。

p.22 『事実はなぜ人の意見を変えられないのか 説得力と影響力の科学』

わたしが最近なんとなく惹かれて読んだ、ジャンルもバラバラな本たち。その内の数冊が、ある同じ指摘をしていた。それは私たち人間の持つ脳と、私たちの生きる環境・用いる技術の進化のスピードがあまりにも違うという事実。そして、大きすぎるその歩幅の差が過去に何度も深刻なエラーを引き起こしてきたこと、また同じ問題は今後も起こると予想されること。

 

最初に引用した書籍『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』(ターリ・シャーロット著)は、他者に影響を与えるために重要な7つの要素を説明し、その有効な応用と、同時に自らに影響を与えようとそれらを用いてくる他者への対処を助ける1冊である。

2017年に発刊された“THE INFLUENTIAL MIND”の邦訳であり、序章には2015年当時大統領候補だったドナルド・トランプと小児神経外科医ベン・カーソンが子どものワクチン接種について交わした議論が登場する。本章でもグーグルのアルゴリズムやSNSの利用が私たちの意見にどう影響を与えているかに触れるなど、全体を通して極めて現代的な内容だ。

 

しかし私に「人間は事実や数字やデータに動かされない」ことを教えてくれたのは、このまだ目新しい認知神経科学の本だけではなかった。

以下に紹介するのは、ミーハーな私がコロナ禍で疫学の本を読み漁った中の1冊、『感染地図 歴史を変えた未知の病原体』(スティーブン・ジョンソン著)。1854年の夏にロンドンのソーホー地区を襲ったコレラ禍、その中で感染源と感染経路の究明に努めた疫学者ジョン・スノーたちの闘いが描かれている。

スノーが特定した感染経路は、地区の人々の生活に欠かせなかったある井戸だった。井戸のすぐそばに住んでいた感染者の排泄物によって井戸水が汚染され、コレラ菌が人々の口に運ばれたのだ。この時は排泄物を捨てる「汚水溜め」と井戸が地下で直結していたのだが、同じことがもっと大きなスケールでも起きていた。公衆衛生の名の下に街の汚水溜めが撤去され、日々生み出される大量の廃棄物はそのまま川に流されるようになったのである。市民の飲料水の源だったテムズ川も、巨大な汚水溜めと化した。

1840年代後半のイギリス公衆衛生の最大の皮肉がここにある。コレラは口の中に入れないかぎり害はないという飲料水媒介説をスノーが作り上げている最中に、チャドウィックはコレラを市民の口に入れるシステムを作っていたのだ。現代の生物兵器テロリストでさえ、こんな巧妙かつ遠大な計画は思いつかないだろう。案にたがわず、コレラは1848年から49年に舞い戻ってきて猛威をふるい、その死者の数は、下水道委員会がうれしそうに報告していた川に捨てた廃棄物の量を追いかけるように急増した。このときのコレラが収束するまでに、およそ15,000人のロンドン市民が死んだ。近代中央集権行政の初の公衆衛生政策は、都市全体に毒をばら撒くことだったのだ。(中略)

 なぜ当局がテムズ川をこれほどまでに痛めつけてしまったのだろう?各委員会のメンバーは全員、川に廃棄物を流してしまえば川の水質が悪化することくらい十分にわかっていたはずだ。そしてその川の水を、かなりの割合の市民が飲むことになることも。コレラの原因が飲料水だという説があろうとなかろうと、増え続ける排泄物を飲料水の水源に大量に捨てて喜んでいる姿は、狂っているとしか思えない。実際、これは狂気だった。たったひとつの節にふりまわされた狂気。あらゆるにおいが病気なら、市民の健康被害はすべて悪臭のせいであり、屋内と街路から悪臭を取り除くためならテムズ川を下水川にしても見合うはずだったのだ。

pp.162-163 『感染地図 歴史を変えた未知の病原体』

汚物を流し入れた川から、飲料水を採取する。排水のろ過・消毒に関する現代の技術を用いることができたとしてもなお承服しがたい状況だろう。それは、あらゆるにおいが病気であり市民の健康被害はすべて悪臭のせいであるという考え方、つまり「瘴気説」が当時の主流な考え方だったからこそ成立したのだ。

彼らにとっては、病を引き起こす悪臭のもとを街に留めず流してしまうことが最重要事項だった。それこそ、人間の体内に細菌など異物が入った時に、嘔吐や下痢などの症状によってとにかく身体の外へ出してしまおうとするのと似ているかもしれない。人々は健康のために嫌な臭いを避けたいと思い、実際そうした。結果的にはそれがコレラによる被害を拡大してしまったのだ。

おなじ環境に住み、おなじ空気を吸っている集団なのに、毒を含んでいるとされている蒸気への反応が人によって異なるのだ。もしほんとうに臭気がロンドン市民を殺しているのなら、犠牲者の選び方がえらく気まぐれだ。それにチャドウィックとその委員会が街の汚水溜めの除去にせっせと取り組んでいるにもかかわらず、コレラはそんなことにはびくともせずに、1853年にさらに勢いをつけて戻ってきた。

 すべてはひとつの疑問に集約される。瘴気説はなぜこれほどまでに根強く広まったのだろう?聡明な人々がなぜ、矛盾する証拠が山のようにあるにもかかわらずこの説に固執したのだろう?

p.169『感染地図 歴史を変えた未知の病原体』

著者スティーブン・ジョンソンによれば「本来は賢い人々が間違った考えに固執するというときは、その裏には何かの力がはたらいている」。瘴気説が根強く支持された背景には、人格的に劣る貧しい人々は病気になりやすく、そしてそんな彼らが暮らす地域は空気が汚染されているという社会の偏見、そして悪臭を察知し忌避する人間の本能があった。

19世紀に入ってまで瘴気説が根強く残ったのは、医学や宗教の伝統とおなじくらい本能に根ざしていたことに関係する。医学文献の中で瘴気がくり返し主張されたのは、それが執筆者の悪臭にたいする反射的な嫌悪と深く結びついていたからだ。においの感覚は五感の中でもっとも原始的なものだと言われている。欲望や憎しみといった強い感情を引き出し、いやがおうでも記憶を呼び覚ます。現代の脳の画像診断技術は、嗅覚システムと脳の感情センターが生理的につながっていることを白日の下にさらしてくれる。大脳辺縁系という感情中枢がある場所は、かつては「嗅脳」と呼ばれていた。2003年の脳画像研究により、強いにおいは偏桃体と腹側線条体の両方を活性化させることがわかった。偏桃体は脳の中でも進化上の古い領域にあたる。哺乳類の高次機能をつかさどる新皮質などと比べるとずっと原始的なのだ。恐怖や悲しみなどにたいする本能的な反応は偏桃体から発する。腹側線条体は食欲や喉の渇き、吐き気、またある種の恐怖症など生理的欲求に重要な役割を果たしているらしい。この2領域は脳の警報中枢と考えられている。人間の場合、この2領域は言語ベースでの理性をはたらかせる新皮質機能をシャットアウトする力をもっている。2003年におこなわれた脳走査試験による研究では、偏桃体と腹側線条体は鋭く不快なにおいにさらされると、とびぬけて強い反応を示した。

平たく言えば、人間の脳は、ある種のにおいを嗅ぐと無意識に嫌悪感をおぼえるという警報システムを進化させてきたらしいということだ。この反応は理性的に考えるという回路を通らずに、そのにおいに関連するものを避けたいという強い欲求を作り出す。(中略)

警報システムの煙探知機を嗅覚に置いたのは、狩猟採集生活の環境なら完全に理にかなっている。(中略)問題は、狩猟採集生活に適応していた祖先の生き残り戦略が、人口200万の近代都市に住む人にはミスマッチを起こすことだ。(中略)瘴気論者には、ロンドンのにおいのせいで人が死んでいるわけではないことを示す科学も統計も逸話も十分にあった。しかし彼らの本能は、というより偏桃体は、そうした理屈をすべて無効にした。

pp.172-175 『感染地図 歴史を変えた未知の病原体』

当時の学識ある人々は、多くの市民が飲むことになる川に廃棄物を流してしまえば川の水質が悪化することがわかっていて、空気に毒が含まれているのであればそこにいる人は漏れなく感染するはずなのに実際はそうなっていないという矛盾も目の当たりにした。それなのに瘴気説に固執してしまった一因は、知識に基づく理性的な判断をシャットアウトしてしまうほど強い、悪臭に対する本能的な拒否反応だったのである。

 

人間の脳が自らの感覚に反する情報を遮断するという事実は、『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』でも触れられている。人は自らの意見や事前の判断にそぐわない情報を得たとき、それによって自分が不利益を被る可能性があっても、その情報を軽視する傾向にあるという。そして意にそぐわないデータを与えられた瞬間の脳は、まるで「シャットオフ」するように反応が低下することが認められているのだ。

 

本能は強い。本能をつかさどる脳の領域は、理性的に考えるという回路を通らない強い欲求を作り出すことができ、しかも言語を用いて論理的に考える別の領域を黙らせることまでできる。私たちは誰かに言葉を尽して事実らしきことを説明されたとして、気に入らなければ耳を塞がずともそれを無視することができてしまうのだ。『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』にあるように、今ではインターネットもその「気に入らないものを無視する力」を助けてくれる。

 

人は先史時代から脈々と形成されてきた強力な本能を脳の中に保持したままで、都市に移り住むようになった。200万人がひしめき合うように暮らしていたロンドンでコレラが猛威をふるい、密集して暮らす何百万の人が同じ水源をつかうことに対して市民が危機感を抱いてから170年。きちんと上下水道が整備された世界中の都市は、人々が様々な意味で豊かな機会に恵まれ、より環境に優しく、そして健康的に長生きできる場所になった。

2020年5月、東京は1,400万人が暮らす都市になった。「新型コロナウイルス感染拡大の影響で都市離れが進む」という見方はもっともらしかったが、緊急事態宣言下であった4月にも2万人増加している。

 

私は、少なくとも日本において地方から都市へ人々が向かう大きな流れが、コロナの影響で止まることは無いと考えている。都市と地方がインターネットやリアルな交通網で繋がれば繋がるほど、都市で生活することの価値は上がる。都心に住まう人々に多少過密地域を避ける流れが生まれたところで、それは都市の周縁への移動に過ぎず、都市から離れた地方が興隆をみることは無いと思う。東京への一極集中はたぶん続く。

 

そして都市で暮らすヒトは、都市以外で暮らすヒトよりも子どもを産まない。世界中で都市化が進めば、地球上の人口はどこかで減少に転じる。種の存続こそがすべての生命の目的であるとすると、ヒトは生物としての本能を忘れてしまったようにも見える。

でも幸か不幸か、おそらくそれは事実ではない。ヒトの脳が進化する速度は、ヒトがその棲息地を都市へ移し、用いる技術を向上させてきたスピードには決して追いつかないからだ。現代に生きる私たちはどんなに賢くなり理性を鍛えたつもりでも、想像を絶するほど古く、そして強力な先史時代の脳(の領域)を持っている。

人間は事実や数字やデータだけには動かされない。一度意見を持ってしまえば、それを覆すような情報は無視したがる。ヒトが動物である限り、私たちは生理的な不快感を避けるためなら冷静さを欠いた行動をとったり、各種のバイアスに惑わされたりしてしまう。

 

勿論それを理解した上で、科学の知見には真摯に向き合い、理性的な人間として生きていきたいよねっていう話ではあるのだけれど。

 

 

さて、5,000字以上書いてきたのでそろそろ終わりますが、においに関する本能についてコレラよりもう少し身近なテーマ(体臭と男女の相性の関係とか)でいくと、レイチェル・ハーツ著『あなたはなぜあの人の「におい」に魅かれるのか』は面白かったです。同著『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか』も「生理的に無理」が理性的に説明されていて興味深い本だったけれど、個人的には『あなたはなぜあの人の「におい」に魅かれるのか』の方が読んでいて楽しかったと記憶しています。まずは前者がおすすめ。

 

そして今さらですが、冒頭で紹介した『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』の著者であるターリ・シャーロットは、わたしが大学生の頃書いた記事で取り上げていた『脳は楽観的に考える』の著者でもあります。『事実は~』でさらりと登場する脳の癖(確証バイアス)などがより詳しく説明されているのが『脳は~』です。古い記事を載せるのは大変恥ずかしいですが、『脳は~』の中身が気になったらまずこちらも併せてお目通しいただければと思います。

 

最後までお付き合いいただきありがとうございます。おやすみなさい。さやかでした。

 

脳は楽観的に考える

脳は楽観的に考える