こんばんは。さやかです。
今日は大好きな先輩とのアフター7が急な仕事で流れて悲しかった華金から一転、充実した土曜日を過ごしました。一転させたのは他の誰でもない私であり、気分と行動をコントロールできたその満足感と、自転車と自炊で爆上げされた自己効力感で、今はとても満ち足りた気分です。
結局朝はゆっくり起きてブランチをキメて 日中は5時間くらい自転車に乗って 夕方帰ってきてシャワーを浴びて、今は本を読みながらゴロゴロしてる。幸せ。1日誰とも話してないし普通に孤独なはずなのに、どうしてこんなに幸せだなあって実感が溢れてるのかわからないけれど、今ほんとうに幸せ。不思議。
— さやか (@oyasumitte) 2019年8月24日
そんな幸せな気分の中で今回お話するのは、中村桂子さんの『「ふつうのおんなの子」のちから 子どもの本から学んだこと』の読後感です。よろしくお願い致します。
人生の大先輩に対してこんな風に感じるのは本当におこがましいなと思うのだけれど、中村さんが語られる人間が生きるということについての考え方は、私がずっと人には言えずに自分の中にモヤりと持っていた大きな疑問とそれに対する自分なりの暫定的な答えと重なるところがあると思ってきました。
しかし『「ふつうのおんなの子」のちから』には「ん?」と思わされるところが多かったのです。中村さんの思想は私のそれよりもずっと確固たるものであって、私が賛成でもないけれど反対もしかねると思っているような問題についてもはっきりイエス/ノーを示されていることが要因かしらと思いながら読み進めました。
さて、本著で紹介されている文献の多くを、私は過去に読んだことがありました。小学生の間に一通り読んだ少年少女向けの童話はもちろん、フィリップ・アリエスの『《子供》の誕生―アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』や、ジャレド・ダイアモンドの『若い読者のための第三のチンパンジー―人間という動物の進化と未来』等々。
学生時代に興味があり読んだ本が多く取り上げられていて、懐かしさに胸がほっこりした一方で、「え、その本のそこを切り取るの?」と思ったポイントが多々ありました。ただ当時の私は彼女のような問題意識を持たずに読んだ為に、その本の主旨ではないところが特に面白く映ってしまい、印象に残った内容が異なってしまったのかもしれません。その点はそれぞれをもう一度読んで確認してみたいと思っています。
中村さんは「日常生活の中で接するものやことをよく見て、自分の言葉で考え、納得しながらふつうに暮らす」という生き方をされてきて、それを「ふつうのおんなの子の生き方」と括った上で、そうして暮らす女の子が生きやすい社会になってほしいと本著で語っておられます。
どんな社会を理想とするか、何を正しいと考えるか、何を善とするか。これは正義の問題です。正義と正義感について、中村さんが本書の中で「自分のやりたいことをやるときに、必要なのが正義感です。それなしでは、単なる自分勝手で傍迷惑です」と述べられている一方で、「正義というのは難しいものです。(中略)いけないことはいけないと言わなければなりませんけれど、押しつけてはいけない。難しいですね」とも語られています。
確かに正義は、したいことを勇気を持って行動するためには必要で、押し付けてはいけないものだと思います。私には「それなしでは単なる自分勝手で傍迷惑」というところが引っかかりました。正義は、そこにありさえすれば行為が「自分勝手で傍迷惑」ではなくなるというものではないと思うからです。それは人によって正義の種類が異なることにも起因すると思うのだけれど、一方で正義が「自分勝手」であるかどうかと「自分勝手」が悪であるかどうかもまた別の問題だし、とにかく正義については語りだすときりがなさそうなので今回はネット炎上に見る正義の問題がわかりやすくまとめられている記事を紹介するに留めます。
「万人にとって正しい正義」が無いからこそ炎上するし、言い争いが起きる。どんなに誰かが叩かれていても、一方が完全に悪で、もう一方が完全に正義ということはほとんどない。
中村桂子さんは戦時を生きた方で、その経験を持つ方が今の社会を動かしている大きな動きとか時代をつくっている空気に対して違和感を持っていること、そしてそれを書籍の形でより多くの人に伝えようとしていること、どこを切り取っても私が物申せるような事柄ではない気がするのだけれど、『「ふつうのおんなの子」のちから』を読んでいる間に私がずっと考えていたのは、どこかふわふわしていて現実味が無い話だなということ、そしてとにかく中村さんは『最近の社会』という漠然としたものを悪く思っているのだなということでした。
浮遊感は「ふつうのおんなの子」の具体例として挙げられるのが童話の中の少女であることから来るものというよりは、文中で「今の社会」とか「最近の子ども」について語られるときに根拠となるデータが示されないことが要因だったように思います。
もちろん中村さん自身そのことについて「思いを込めて語り、小さなことでも実行すれば、その方向へ動いていくということはあるはずです。/そこで私の思いを語ります。深遠な学問や数値からではなく、そんな気がする、そうであったらいいなという願いなのですが」と序章で断られており、データを示して説得しようというつもりがないことは明らかです。
戦中戦後、現代を通して肌身で感じてこられたことを、中村さんの言葉を借りれば「思いを込めて語」ることで、あるいは意地悪な言い方をすれば、理性よりも情に訴えることで「私が大事と思っていることをわかっていただきたい」という意志があって書かれた本だということです。
でも中村さんの意見に反対する気持ちのない私ですら気になってしまう議論の浮遊感に、果たして中村さんの願う「ふつうのおんなの子の生き方」や「ふつうのおんなの子が活躍する社会」について理解や共感を覚えない、男らしい価値観の中で生きている人たちが耐えられるかどうかがとても気になりました。わかってほしい人ではなく、既にわかっている人たちにしか響かない本なのではないかと思ってしまったのです。
中村さんの語る「ふつうのおんなの子」の生き方。小さなことや何気ないことをつまらないとせずに面白いと思いながら暮らすこと。私は自分自身がそうありたいと思っているし、中村さんの理想とする世界に反対するつもりはありません。
でも「ふつうのおんなの子」が生きにくい社会を形づくっている、男らしい乱暴で一方向的な価値観とそれを支持する「おんなの子」でない人たちを悪者であるかのように語る表現の数々に、そこに主観しかないことに、どこか乱暴さをおぼえてしまうのは私だけでしょうか。客観的な根拠を以て語ること自体が男性社会に迎合することであって、思いだけを語るのはそれを避けるためであると言うのなら、「おんなの子らしい」人たちとそうでない人たちが理解し合うことなんて、それこそ不可能なのではないかしら。
ここまで書いてきてもまだこの本が書かれた意味を飲み込めた気がしないので、時間をおいて読み直してもう一度ブログで整理したいと思います。
なんだか長々と揚げ足をとるようなことばかり書いてきてしまった気がしますが、ここで紹介しているのは確かに私にとって少なからず読んでためになる本だったからです。
紹介される参考文献の多くに、それらが書かれた時代背景や著者の社会的な立場についての説明が添えられていて、名著の案内本としてもかなり親切だと思いました。子どもの頃何も考えずに楽しく読んだ物語も、大人になった今、その出自について知ってから読み返すときっと違う見方ができて面白いはずです。
それから、中村さんが「(人間が)生きていることに正面から向き合いたい」と考え、生命科学と生命誌の違いの捉え方について悩んでいたとき、今では彼女が先輩として参考にしているという古典の「虫めづる姫君」を彼女に読むよう勧めたのが、哲学専攻の友人だったというエピソードが印象に残りました。
実は前半で(読んだことがあるとやや得意げに言って)紹介した2冊、フィリップ・アリエスの『《子供》の誕生―アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』とジャレド・ダイアモンドの『若い読者のための第三のチンパンジー―人間という動物の進化と未来』はどちらも、学生時代に私の興味関心を知った教授と先輩が勧めてくださったものなのです。これからも、気になっているものや悩んでいることを共有すれば「この本が参考になると思う」「それを気に入るならこれもハマるんじゃないかな」と、ネットで検索するよりも精度の高いヒントを与えてくれる人たちとの縁を大事にしていきたいと思っています。そのためには私自身も学ぶことを止めずに、受け取るだけでなく相手に何かを返せる人でなければならないなと。
これからは個人の時代だとか大学なんて行かなくても良いだとか一部の人たちが言うようになって久しいですが、コミュニティーに属することとかお互いを認め合える人たちと良い関係を築くことの意味は相変わらず大きいし、私の思う幸せは多分そういうところにあるような気がしています。うんうん。「実はまわりの人々(中略)があってこそ、おんなの子は生かされます」と言った中村さんの思想、やっぱりわかるところも多いような気がしてきました。
ここまでなんと4280文字。長文失礼しますという断りも無く、唐突に小論文みたいな長さになってしまって申し訳ないです。最後まで読んでくださりありがとうございます!
おやすみなさい。さやかでした。