おはようございます。さやかです。
今日は社会人になって最初の日曜日。今年は運悪く4月1日が月曜日だったので,初っ端から1週間フル出社でした……と言っても私の会社はしばらくずっと研修なので,正確には一度も会社には行っていないのですけれど。それでも久しぶりに早起きと日中の睡魔との格闘を伴う長時間の拘束を週5で受けて,身体には結構疲れが溜まっている気がします。週末をこんなにも待ち遠しく感じる気持ち自体がとても新鮮で,それは単純に休みたかっただけではなくて,金曜日の夜に楽しみな予定があったからでもあったり。
桜は美しい
そして卒論提出以来の長かった冬(春)休みが終わって自分の休みが土日だけになった今,今まで社会人が私に対して割いてくれていた時間の価値の重さを感じています。男の人に誘われたり会って優しくされたりしても「私に興味があるわけじゃないんだろうな」なんて思っていた時期もあるけれど,大人には本当にどうでもいい人に会っている暇なんてないんですね。
昨日はカフェで朝ごはんを食べたあと,桜が綺麗だったので上野公園に行きました。人が多くて食べ物の匂いに酔いそうになったのと,あまりにも天気が良くて早く帰って自転車に乗りたくなってしまったので,本当に一瞬でしたが。
昨日は少し前までの寒さが嘘みたいに暖かいし桜も葉が目立つようになっている木もあって,ぼーっとしていたら社会人最初の春はすぐに通り過ぎて行ってしまうような気がしました。目の前のことに一生懸命になりつつ,一方で1年後にどうなっていたいかとか3年後にどうなっていたいかとか先のことも考えて動いていかなきゃなと思います。「先のことなんか予測はできないし考えても意味なんてないでしょう」と言う人もいるけれど,私はそんなふうに思考停止したり目を閉じてしまったりしたくありません。ぼーっと生きていたら桜は散ってしまうから,そうなる前に人はお花見の計画を立てるし,無計画でも咲いているのを見かければ足を止めて眺めたりもするでしょう?
ところで私が「もう22歳だからなあ…」という話をすると「まだ若いんだし,そんなに先のことばかり考えて心配しなくてもいいよ」と言ってくる大人ほど保険に入っていたり保険をすすめてきたりするのは何なんだろう。保険こそ先のことを考えて加入しているものなのではないでしょうか。
命は美しい
さて会社にとってかなり割高な投資だと噂の新入社員研修では,右も左も知らない新卒社会人に対して定期預金や株などいろいろなものが勧められます。大学の講義のようにこっそりスマホを使って暇をつぶすことが敵わないので話を聞くしかすることがなく,私も基本的に真面目に聞いているのですが,それでも保険の話だけはダメでした。「社会人たるもの保険についてもきちんと考えておきましょうね(大口取引先である保険会社さんと一緒に♡)」という会社からのメッセージが全く心に響かないのです。
遡ること2年。2017年の夏,私は就活をしていました。ある企業の短期インターンでグループディスカッション演習に参加した際,用意されていたお題が「長生きをしたいか?」。長生きしたい派,したくない派に分かれて意見を交わせ,というテーマでした。まずはそれぞれの意見を確認しようということになり,私以外の人が「長生きしたい」と言っていくのを私は嘘だろと思いながら聞いた後,迷わず「長生きしたくない」と言いました。長生きしたくないのは私だけだったので,少数派の私から理由を述べていくことになり「身体が中からも外からも衰えていくことに耐えられないし,死んだら自分の意識はなくなるんだからいつ死んでも同じ」とでも言ったような気がします。そしてさすがにグルディスの場には重すぎると思って言わなかったけれど,本当は「若い女であるという点に自分の価値が底上げされていると思っているから,若さを失ったあと生きるのが怖い。もしも好きなタイミングで苦痛を全く伴わずに生を終えられる方法があるなら,私は24歳あたりを選ぶだろう」とも思っています。
このように私はできるだけ長く生きたいとは思っていません。話を戻して,研修中に受けた保険の説明では「癌は治る病気になったが,治療費用は高額だ」というのが癌の保険に入った方が良い理由になっていました。でも延命を望まない私からすれば,それは理由になっていません。高額の治療を受けないと治らない癌になったら治さずに死ねばいいと思っているからです。人は誰しも必ず死ぬし,それがいつであるかはその人の死後を生きる誰かには影響したりしなかったりするとしても,死んだ本人は意識を失うのだから遅かろうが早かろうが関係がないというのが私の死生観です。
自由と親孝行
がん保険に惹かれない私は,生命保険にはもっと興味がない。今,もし生命保険をかけた私が死んだとすると,配偶者はいないのでお金を受け取るのはきっと父親になります。そして両親は私が死んだときに端金が舞い込むことを特に望んでいないと思います。もし自分に扶養する家族ができたなら私は癌を治療して長生きして働く必要があるかもしれないし,私が死ぬと困る人たちにお金を残す必要があるかもしれません。でも今は私が生きられなくなったときに困る人を思い浮かべることができないので,がん保険や生命保険にはとんと興味を持てないのです。このように考えて保険に入らないのも,高額の治療を受けないと死ぬ病にかかったときには死んでしまいたいと思うのも,私の自由です。私の命なので。
死ぬ自由といえば,高校生のときに私が行使した自由の1つに「臓器提供意思登録」があります。保健体育の授業で臓器提供について学び,すぐに臓器提供意思登録カードの発行を申請しました。運転免許証があれば裏に書き込むだけで済むものです。ネットで申し込むと郵送でカードが届き,あとは本人と家族が記名したら完成です。
日本臓器移植ネットワーク | 臓器提供について | 意思表示の方法
写真にあるように,高校生の頃から私の意思は「脳死でも心臓停止でも,とにかく死後にはすべての臓器を提供する」というものです。私がどうせ終わる自分の命の器を無駄にせず誰かに譲って活かしてほしいと思うことは,間違いなく私の自由でした。
でも今思うと,両親には悪いことをしたなと思います。高校生の娘に嬉々として臓器提供意思登録をしたいと言われた2人は,どんな気持ちになったでしょうか。万が一私が事故にあって脳死状態になったとして,機械に生かされているとはいえ今にも目を覚ましそうな様子なのに「脳死だから本人の生前意思通り臓器提供ね」と,娘の延命が止められ身体が切り開かれることに,両親が抵抗を感じないことがあるでしょうか。ないと思います。
死後には臓器を提供したいという意思は今も変わらないし,両親は私がそうするのが嫌かもしれないということを考えてもやっぱり自分が間違っているとは思いません。家族に重い選択の負担を強いるよりは,自分で決めておいて私の希望だからと納得してもらう方が結果的には良いのではないかとすら思っています。
ただ高校生の頃の私の行動は,あまりにも無邪気で気軽すぎたなと思います。両親に同意のサインを求めるとき,もっと2人の気持ちを考えるべきでした。そして今も両親とは基本的に何でも話す仲ですが,がんになったら死ねばいいと思っているから保険には入らないつもりだなんて話はとてもできません。
このように,私の身体も私の命も私のものだし,これをどうするか決める自由は私にあるはずだけれど,母親に産んでもらって両親をはじめ多くの人の中で育ててもらった分と今も大好きな人たちの中で生きている分だけ,私の自由を通せないところもあることがわかってきて。親孝行な娘でありたいのも親より先に死にたいのも私で……とりあえず今は,娘として初任給で両親に何をプレゼントしようか,何をどんな風に伝えようかを考えておくことにします。
蛇足ですが,病気の治療に関してはこのような軽薄な考えをしている私も,感染症の類の予防接種は積極的に受けます。これは私の中では矛盾していなくて,私は私自身が感染してしまったら死ねばいいと思っているけれど,私が予防接種を受けなかったことが原因で感染症の拡大に加担してしまったら嫌だからです。
……ということで今日も長々と書いてきましたが,桜は散るから美しいし人は死ぬから尊いし休みは終わるから貴重なので,私も社会人初の日曜日を有意義に過ごしたいと思います。最後までお付き合いいただきありがとうございます。ごきげんよう。さやかでした。
いつ聴いても「問題なのはあまりに長い命の残り」という歌詞が心に刺さって抜けなくなってしまうので迂闊に聴けない曲。