こんばんは。E女です。
私は先月 無事に卒業論文を提出致しまして,2019年3月をもって大学を卒業することになっています。
モラトリアムの終焉が近いです。
4月からは内定先の会社に勤め人として労働力を捧げ,おちんぎんを受け取って生きていく所存です。
ということで,まだ社会人として実際に働き出していない立場ではありますが,今回は仕事とか人生について私が思っていることを書いてみたいと思います。
よろしくお願いいたします。
こだわらないのが幸せか?
さて,大学生になったときにひとり暮らしを始めて,同じようにひとり暮らしをしていた友達や彼氏と話す中で気づいたのですが,どうやら私はわりと自分自身や暮らしを構成するいろいろなものに対するこだわりが比較的強いらしい。
こだわるには普通「どうでもいい」と思っているよりもお金がかかります。
たとえばスーパーに買い物に行くと,同じカボチャの1/4カットでもニュージーランド産と北海道産が並んでいたら,北海道産の方が割高になるじゃないですか。
もっとわかりやすいのはお肉ですね。
同じ牛肉の同じ細切れでも100gあたりの値段が国内産と国外産では違っていて,キレイなピンク色が並ぶハムやベーコンの棚では地味な茶色のハムが「無添加」を唱って割高になっているはずです。
この場合,私は北海道産のカボチャと国内産の牛肉と茶色のハムを選びます。
絶対に国産!絶対にオーガニック!みたいな強い思想でも,特別高級志向というわけでもありません。
ただ母親が,値段にはあまりこだわらずに,国産,もっと言えば地産地消的な選択を好む人だったのをずっと見てきて,私の中ではそれが自然なことでした。
加えて,衣服や化粧品に関しても自分に合うものや好きなものを探求する楽しさを覚え,現時点で毎月の収支額が若干身の程を弁えていない気があり……。
まあポンコツピーポーでも8割ぐらい仕事をこなしていれば社会でやっていけるから大丈夫だと聞くし,一応内定先は古き良き日系企業の総合職ではあるし,すぐに食いっぱぐれることはないと思うのですけれど。
それでも今のお金の使い方×努力せずにもらえる給料では,きちんと種銭を蓄えたり結婚資金を積み立てたりする余裕はおそらく無いだろうと。
今の時代,私がクビにはならずとも,一見安定していそうな会社自体が転んでしまう可能性もあります。
私は繰り返しサウザーラジオを聴いてきた身なので,買い物をしているときに「まだ見栄を張るために浪費するのか?お前はバカか?」と自分でも思うことがあります。
でも自分が食べるものや肌につけるもの,身に纏うものなどにお金をかけることって,必ずしも外に向けて見栄を張っているわけではなく,私にとっては無駄な出費ではないのです。
気合いを入れて150円で買えないボールペンとかノートを買ったりするのも,毎日それを使うときに気分が上がるのであれば,私にとっては余分にお金を払う価値があります。
そうしている限りで私はわりと自分に自信が持てるというか,自尊心とかプライドの底支えになるというか……
まあそうやって何とか保っているなけなしの自尊心すら削ってくるタイプの男の人を選んできたので,下りのエスカレーターを上り続けるみたいな頭の悪いことになっているわけですが,それはもう性癖なので。
とにかく,安い家に住み値段で食べるものを選びプチプラの服を選べば,生活コストってもっと削れるわけですが,その道は私には不向きだなと。
22年こういう生き方をしてきて,それをおいそれと変えられるわけがないなあと思うんですね。
こういうことを言う女は面倒くさいだろうし,明らかにお金のかかる女だし,そんなこだわり捨てないと結婚できないだろって言われるかもしれないんですけれど,「そんな女絶対結婚したくねえわ〜(笑)」って言ってくる男の人とは私も結婚したくないので痛くも痒くもありません。
この人と生きていきたい!と思える相手と出会って,その人が今の私のあらゆるこだわりについて「くだらん」というタイプの人なら一瞬で捨て去るかもしれません。
でも私は扶養者である父親以外の男に貢がせて今の暮らしをしているわけではないし,男に寄生して生計を立てていく予定もありません。
私に専業主婦になってほしいと言っていた元彼がいたように,私の母を専業主婦にした父がいるように,女性にそれを望む男の人がいないとも思っていません。
ただ私は,1人でも自分の身を立てて自分で自分を満足させられる分のお金は稼いでいける人でありたいと思っています。現時点では。
私、二十歳のときに明らかに良い父親になりそうだった彼氏からのプロポーズを蹴っていて、だから将来誰かと結婚するとしても 一人で生きていくとしても、あのときの決断を後悔しない人生を歩みたいのです
— さやかちゃん (@sayakacha_n) 2018年12月16日
結婚しないで年を重ねたときに「あの時あの人と一緒にいることを選んでいれば…」なんて思いたくないから、少なくとも自分の生活は自分で立てて、自分が欲しいものは自力で手に入れて、自分の機嫌は自分でとって、自分で自分を幸せにしていくしかない。
— さやかちゃん (@sayakacha_n) 2018年12月16日
と、このように私は本来素直でかわいいはずのアラツー世代なのに,既に面倒なこだわりが強い女になっているし,こだわりが強い女は結婚しにくいらしい。
でもそういう私ごと良いと思ってくれる人か,私にとって他の何よりも優先して一緒に生きたくなるような人に出会えなければ,一人でもいいやと思っています。
これからもそういう余裕をもっていたいし,それって経済力のみが生み出せるものだと思うので,ちゃんと働いておちんぎんをもらわないとね!という話になるわけです。
ここからは,そのためにできることを考えてみたいと思います。
誰にでもできることして生きていく
まだまともに週5で働いたこともない人間が何を言ってるんだと思われることを承知で申し上げますが,世の中の大抵の仕事って基本的には「誰にでもできる仕事」だと思うんですよ。
もちろん「誰にでも」のレベルは一様ではありません。
・(五体満足の健常者なら)誰にでもできる仕事
・(ある年齢の範囲内なら)誰にでもできる仕事
・(ある資格を持っていれば)誰にでもできる仕事
「自分にしかできないことがしたい」という思いを持つことは素敵だなと思いますが,何もない大学生の就活垢が言っているのを見ると香ばしいなと思ってしまうことがあります。
「好きなことして生きていく」そういう夢を見られる社会も悪くありませんが,現実主義者の私は夢見るバンドマンと一緒に青春を追いかけることはできません。
地に足をつけて働くことって,そんなに悪いことですか?
「一億総クリエイター時代」とか「脱社畜」という言葉がもてはやされる今の世間では,小さくまとまってるなよと,あまり良く言われていないような気がします。
でも世の中の大半の人は,自分にしかできないことなんて最初から持ってはいないはずです。
特異な才能を持たない人が「誰にでもできる仕事」をして自分の生活を立てようとするのは,本人が良ければ別に悪いことではないよねというのがまず私の思うところです。
「3杯の茶(三献茶)」という寓話をご存知ですか。
豊臣秀吉と石田三成がエンカしたときのあれです。
石田三成はある寺の童子(寺院で仏典の読み方などを習いながら雑役に従事する少年)をしていた。
ある日、豊臣秀吉は鷹狩に出かけ、途中、のどが渇いたのでその寺に立ち寄った。秀吉は「誰かいるか。茶を持って参れ」と望んだ。三成は大きな茶碗に七、八分ばかり、ぬるめのお茶を持ってきた。
秀吉はこれを飲んで舌を鳴らした。「うまい。もう一杯」。三成はまたお茶をたてて持ってくる。今度は前より少し熱くして、茶碗の半分に足りない量のお茶である。
秀吉はこれを飲んだ。少年の機智に感心した秀吉は、試しに「もう一杯」と望んだ。三成はまたお茶をたてた。今度は熱く煮立てた茶を、小さい茶碗に少しだけ入れて出した。
これを飲んだ秀吉は少年の気働きに感心し、住職に乞い求めて、小姓(武将や大名の側で雑用や護衛の任についた武士)として三成を使うことにした。才能を発揮した三成は次第にとり立てられて奉行職を授けられた。
戸田智弘『ものの見方が変わる 座右の寓話』ディスカヴァー・トゥエンティワン,2017年,75頁。
三成に降ってきた,秀吉にお茶を持っていく仕事は「誰にでもできる仕事」です。
でものどが渇いているであろう秀吉に,すぐに喉を潤すのに適したぬるめのお茶を出し,2杯目,3杯目で温度や量を加減して出したのは三成だからこそできたサービスですよね。
三成は求められている仕事以上のパフォーマンスを発揮したことになります。
もう少し現代風な例え話もあります。
あなたが7人でレストランに行って,骨付きのチキンを頼みたい状況を思い浮かべてください。
メニューには1皿3ピースと書かれていて,7人とも食べたいので,仕方なく3皿(9ピース)を注文しようとします。
その注文を聞いたあるウエイターは「7個でも注文できますよ」と言いました。
7人が9人分の料理を頼むのを聞いたウエイターの立場で「誰でもできる仕事」は,オーダーを厨房に通すことです。
でも同じ注文を聞いて,この人たちはなぜ9人分を頼むのか→1皿3ピースと書いてあるからだ→本当は7ピースを頼みたいのではないか,と考えて柔軟に対応したウエイターのサービスは「誰にでもできる仕事」ではありません。
一見誰にでもできそうなことも,実際にやる人が少ないのであれば,それは真に「誰にでもできる仕事」ではないと私は思っています。
勉強すればとれる資格をとって扱える仕事の範囲を増やしたり待遇を交渉したりすることはもちろん,よりお金には直結しなさそうな,一緒に仕事をする人への心遣いを忘れないことなんかもそうです。
ほとんどの仕事は代替可能な仕事である。とくにアルバイトなどはそういう面が強い。しかし,そこに自分のできる範囲で気配りや機智を加えれば,それは自分の仕事──自分だからこそできる仕事──に化ける。
戸田智弘『ものの見方が変わる 座右の寓話』ディスカヴァー・トゥエンティワン,2017年,77頁。
ここにきてさらに矛盾することを言うようですが,私は努力は必ず報われるものではないと思っています。
「いいことをしていればいつかは報われる」とひたすらに信じることと,「いつか降ってくるチャンスを掴むためにできることをしておこう」というのは似ているようで微妙にニュアンスが違います。
努力をしても、報われるかはわかりません。
「三杯の茶」の逸話からわかることは,三成がどんなに機智に富んだ男であったのかということだけではないはずです。
歴史にifはありませんが,三成を見出した秀吉との出会いがなければ,三成のような男であっても市井に埋もれて一生を終えた可能性はあります。
才能があっても努力をしても,運に恵まれなければどうにもならないことって,往々にしてあると思うんです。
私の父は,サラリーマンとして成功した大人の一人です。
成功の仕方も今や多様化していますが,ここでは昭和的な価値観における社畜としての大成を指します。
父の企業人としての歩みを聞くと,会社選びと努力の方向と内容を間違えずに地道な下積みをして,上司ガチャの結果にも恵まれ,突然降ってきたピンチという名のチャンスを掴んできたのだなと思います。
父に実力がなければ始まらなかったけれど,それでもさらに運の要素に恵まれなければ今の私の暮らしはなかったはずです。
ところでこの記事を書きだしたきっかけは,豊臣秀吉ならぬヒデヨシさんのツイートでした。
「誰にでもできる仕事」をバカにしてはいけないのはわかりますが、どうしてそこで「人より専門性を高めて、希少価値のある人材になろう」と努力しないんですか。
— ヒデヨシ (@cook_hideyoshi) 2019年1月3日
そうすれば市場価値も上がるし、より良い待遇で転職もできる。
賃上げ交渉に力を入れるよりよっぽど自分のためになると思うんですが...。 https://t.co/ZGQJ8fxuao
ただ,私は「誰にでもできる仕事」という言葉について思うところを書いているだけですので,ヒデヨシさんのツイートの本来の文脈は別のところにあるということはお伝えしておきます。
上記のツイートは,給料を上げる手段としてなぜか賃上げ交渉だけを掲げる姿勢に向けて発せられたものであり,誰にでもできる仕事を否定して転職しろとか資格を取れと言っているわけではありません(と私は読みました)。
天は自ら助くる者を助く
私がこの春から就く職は,大卒であること以外は何の資格もいらない仕事です。
言ってしまえば「誰にでもできる仕事」だと思います。
そして「誰にでもできる仕事」を「自分だからできる仕事」にしていく方法,自分の市場価値を高めていく方法は,専門性を追求することだけではないと思います。
自分が幸せに生きる道も,より良い待遇を求めて転職する以外にいくつもあるはずです。
もちろん現状に不満があるなら転職を考えたり,その際に有利なカードを揃えたりするべきですし,転職のつもりがなくても,会社が無くなってしまったときに自分に何の市場価値もないという状態は明らかに良くなさそうです。
ずっと同じ会社で求められる仕事をこなしていった先に「あなただからできる」仕事が待っているかどうかはわかりません。
それでも,誰にでもできる仕事を誰にでもできる範囲でこなしていく人より「同じ仕事ならあなたに頼みたい」と思われる人でいた方が,チャンスが巡ってくる確率は高いはずです。
偶然にすぎない豊臣秀吉との出会いをモノにできたのは,石田三成がお茶をいれる仕事を通して相手に自分の才覚を示す術を持っていたからです。
会社の寿命は短くなり終身雇用制が崩れだし,社会の流動化が進む現在は,ずっと同じ場所で人事を尽くして天命を待つだけでは足りないのかもしれません。
チャンスが巡ってくる気配がなければ今の環境に見切りをつけて,待遇を上げながら転職する必要があるかもしれません。
でも「自分にしかできない仕事」って探せば最初からそこにあるものではなくて,誰にでもできる仕事を自分にしかできない仕事に変えられる人になって,初めて与えられたり,挑戦できたりするものなのではないかと私は思っています。
自分にしかできない仕事に変える方法は決して派手なものばかりではなくて,その一つは常に相手の期待を少しだけ上回る価値を提供し続けることだと思います。
私はそうやって人に必要とされる存在になっていきたいし,そうやって手に入れた仕事とお金で自分自身を幸せにできる人間でありたいです。
そして,結婚しなくても幸せでいられる私として,誰かと一緒に生きていくことを考えたいのです。
小娘の理想論かもしれないけれど。
ということで最後に,私が大好きなティファニーのキャッチコピーを紹介して終わります。
コピーライター,眞木準さんの作です。
ひとりで生きていけるふたりが、それでも一緒にいるのが夫婦だと思う。
最後までお読みいただき,ありがとうございました!
参考文献
戸田智弘『ものの見方が変わる 座右の寓話』ディスカヴァー・トゥエンティワン,2017年。