どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

話で聞いてる神様はどれもこれも人の形なんだ。

 

年末に,ある記事を読みました。

 

ある天才が喋っていることがわからないと。

俺はわからないし、皆わかっていないだろうと。

天才が上げた具体例に過ぎない話をつかまえて「なんだ、それの話だったの?」と。

 

確かに天才は凡人にわかるように説明することをしません。

そんな説明を挟まずとも互いの言葉を理解し,ノンストップで議論が進行していく世界で生きているからです。

彼が当然のように脳内で瞬時に処理して表さない思考のステップを,多くの凡人は時間をとり順を追って説明されないと理解できません。

その天才をつかまえて,彼の言ってることって意味わからないよねとお笑い種にしようとする姿勢は,思考停止と無知の露呈以外の何でもないと思います。

個人的にしっくりきたのは,オリエンタルラジオ 中田敦彦さんがその天才,落合陽一先生について書いた記事でした。

 

オリラジ中田が語る、メディアアーティスト落合陽一の魅力 | オールナイトニッポン.com ラジオAM1242+FM93

 

天才ゆえに論理が二歩も百歩も飛躍するスピード感で進んでいく展開の仕方は,確かに突拍子なく感じることもあります。

ただ少なくとも「意味がわからないw」と取り上げられていた内容に関しては予備知識があれば全くわからない話にも思えなかったので,説明する天才とそれを理解しようとする人たちのことを悪意を持って描く記事は気分が良いものではないなあというのが私の率直な感想でした。

 

 

記事を受けて考えたことを,落合先生の著作や発言をもっと追ってきちんと論理を立て裏付けをとってから書こうかとも思いました。

が,今回はそこまでは追わず,彼の発言だけを拾ってお借りして,私が喋りたいことを好きに書いてみたいと思います。

 

と,ここまで書いてきたのは長い長い言い訳です。

 

つまりこの記事には落合先生の言葉をわかりやすく解説してあげましょうとか,サバの記事を論理的に批判してやろうという烏滸がましい意図はないですよと,臆病にも保険をかけているわけです。

 

そういうことで「小娘が落合陽一の言葉をどんな風に聞いたのか頭の中を覗いてやるか」くらいの軽めのスタンスで読んでもらえたら嬉しいなと思います。

軽めに読んでくださいと言いつつ長文です。

よろしくお願いいたします。

 

社会って、そもそもなんですか?

 

件の番組の冒頭で進行役の方から投げかけられた質問です。

落合先生は「人間とは、手段であり目的ではない」という言葉で回答を始められていました。

この記事でこのように引用表示しているのは全て落合先生の発言です。

 

「社会のための手段が人間であって、人間は目的じゃないので……

ソサエティっていうか、エコシステム……社会ってエコシステムだと思うんですよ。

エコシステム……を成立させるための人間なので。」

 

社会のための人間か,人間のための社会か。

社会が存在するために人間が必要なのか,人間が人間のために社会を作るのか。

 

落合先生は社会が存在するために(目的)→人間が存在する(手段)という前者の立場をとられているように見えます。

 

雑に言えば「社会が先、人間があと。」みたいな感じになるのかなと思いつつ,これはさすがに雑すぎるかも。

 

神が不在の国,日本

 

「だから、人間を重要視……重要視というか、人間を目的にした社会は破綻するんですよ。

で、人間が手段であるっていうところから考え直すと……つまり、人間の定義の問題から始まるっていうところかな……。」

 

一見話が横道にずれますが,集合意識の話をさせてください。

 

集合意識は,その社会で何となく共有されている善悪の基準とか感覚のようなものだとします。

たとえば「人を殺すのは悪だ」とか。

 

この集合意識というものを考えるとき,人によっては,それぞれの価値観をもった個人が集まった結果として生まれるようなイメージを持つかもしれません。

 

一方で,社会統制学においては,個人が集合した結果として集合意識ができているのではなくて、あくまでも社会,集合意識が先に存在して、個人はそれをインストールしているに過ぎないという考え方があります。

 

殺人を本能的に嫌う個人が集まるから「人を殺してはいけない」という社会規範ができるのではなく,「人の命は尊いもので,害してはいけない」という集合意識が個人よりも先に存在して、その社会の中で生まれた個人は,集合意識を体得することによって初めて殺人を犯罪だと思うようになるということです。

 

なぜ殺人が犯罪になるのか,なぜ殺人を犯した人が罰せられるのかというと,それは単純に「悪いことをしたから」ではありません。

「人を殺してはいけない」という集合意識が冒涜され,「人は人に殺されない」という集合意識によって確定されているはずの状況が危機に晒されているからです。

 

やたら回り道をしてしまった気もしますが,人間は社会のための手段で,目的はあくまでも社会であるというのは,こんなことなのでは…ないかなと……思ったのですが……書いているとどんどん自信がなくなってきますね。笑

 

というところで一度,落合先生の「人間を重要視……重要視というか、人間を目的にした社会は破綻する」という言葉に立ち返ってみます。

 

私はここまで社会と人間,集合意識と個人の話をする中で「人の命は尊く,害してはいけないものである」という例を用いてきました。

でも,この「何を尊いとするか」という点も,実は全く絶対的なものではなくて。

 

また例え話になってしまい恐縮ですが,聞いたことがある方も多いかもしれません。

 

今,あなたの目には,制御不能となり,暴走している列車が映っています。

列車が進む線路は2つに別れていて、あなたの手元には列車の進行方向を切り替えるレバーがあります。

このまま何もしなければ列車が進む方向の線路には,人が5人横たわっています。

レバーを引くと進む方の線路には,人が1人横たわっています。

あなたが何もしなければ5人が死に,1人は助かります。

あなたがレバーを引けば,5人は助かりますが,反対の1人は死にます。

あなたはレバーを引きますか?

 

この問いに答えはありません。

犯罪は,構成要件該当性,違法性,有責性が認められて成立するものです。

より多くの命が助かることを重視してレバーを引くか,自らレバーを引くことで1人を殺してしまう責任を避けるために列車を見送るかで多くの人は意見が分かれるかと思います。

 

さて,もう一度同じ暴走列車と2方向に分岐した線路をイメージしてください。

 

列車の進行方向には無人の東京駅があります。

列車が突っ込めば駅は壊れるでしょうが,人は死にません。

一方,あなたがレバーを引けば列車が進んでいく線路には,人が1人横たわっています。

あなたはレバーを引きますか?

 

この問いにはおそらく多くの日本人がレバーを引かないと答えるのではないでしょうか。

それは日本の社会において,人間の命が最も優先されるべきものであるということになっているからです。


でも,暴走列車が進む先にあるのが宗教的意味を持たない東京駅でなく、教会だったとしたら?

教会が、その社会において何があっても侵してはならないという聖性を持っていたとしたら?

 

その集合意識の限りにおいて,優先されるべきは人命よりも教会の聖性です。

神を崇拝する文化では,聖域を侵す列車を止めるためなら人1人の犠牲は仕方ないという規範が存在しうるのです。

 

人間を重要視し,人命が何よりも尊いものとされる“人格崇拝”とでも言うべき今の社会のあり方は,絶対的なものでも普遍的なものでもありません。

 

人格というものを崇拝するように最重視することで人の上の神が不在になっている日本社会を指して,落合先生は「神の定義みたいなものが我々の社会には存在し得ない」とおっしゃっているのかなと思いました。

 

国家として成熟してしまった日本

 

「西洋国家に存在した……つまりキリスト教的西洋国家に存在した神の定義みたいなものが、天皇制でなくなってしまった以上、我々の社会には存在し得ない、っていうところを、おそらく日本社会は拝金や、成長する高度経済成長的エコシステムによって補ってきたんだけれども、その生産社会っていうか、マスメディア主義の日本社会っていうのが成り立たなくなってきたときに、どうやってアップデートし得るのかっていうのが議論になっている……ような気がする。

 

自分は何者なのか,どこから来たのか,どこへ行くのか,自分は社会で必要とされるのか,何をすべきなのか。

こうした不安に答えを示すのは多くの場合宗教であり神であるわけですが,人格崇拝社会において神は不在であるため,人は存在論的な不安に陥ります。

 

ただし,経済が成長し,社会が成長し続けていたイケイケドンドンの血気盛んな時代にはあまり不安は語られません。

働けばもっと良い暮らしができる。

頑張って努力すればもっと幸せになれる。

誰もがそう信じられる時代には,ある意味で経済成長は宗教であり,お金は神のように崇められるものであったのではないかと思います。

 

マスメディアにも,人々をその信仰に走らせるだけの力がありました。

必死で働いてとにかくお金を稼いで,物質的に満たされることで人は幸せになれると,夢を見させ続けてきたのではないでしょうか?

 

落合先生の「おそらく日本社会は拝金や、成長する高度経済成長的エコシステムによって補ってきたんだけれども、その生産社会っていうか、マスメディア主義の日本社会っていうのが成り立たなくなってきた」という言葉を,私はそんな風に受け取りました。

 

今の日本は国家として成熟していて,「今の暮らしに満足している」と答える若者が増え「将来に不安を感じている」と答える若者が増えています。

(ソースは確か新聞のアンケートなのですが見つけてこれなかったのでここでは割愛します。ごめんなさい)

現状への満足度が高いというのは言い換えると期待値が低いということです。

自分の努力によって今よりきっと暮らしは良くなっていくとか,自分の将来は今よりきっと明るいだろうとか,そうやって未来に期待する,希望を感じる気持ちが弱くなっていることの表れとも言えます。

 

で、その……例えば今でもアメリカだったら、宣誓するじゃないですか。大統領が。あの機能は我々の社会にはついてないよね?その機能がついてないことによってエコシステムが不全になってるのは間違いなくて……それは……なんだろ……人間存在より上位存在を仮定することによって契約が可能になる、みたいなもの?でもそれが我々にとってはブロックチェーンでもいいし、スマートコントラクトでもいいわけですよ。で、そういうものを真面目に考えようぜって言って書いてる本だから……まあ、そんな感じ。」

 

神が不在の日本社会は,経済が成長し続けることで健全にシステムが機能してきたけれど,今や国家として社会が成熟し,経済成長は停滞して,ネットの普及でマスメディアは相対的に弱体化している。

そんな状況で,日本社会は神に代わる経済成長に代わる,新たな拠りどころを見出さないといけないよね……みたいな……まあ、そんな感じ?

 

 

私がNewsPicksに登録して『日本社会をアップデートせよ』の「社会って,そもそも何ですか?」という問いに対する落合陽一さんの回答を聞いて感じたことは……まあ……こんな感じです。

 

 

 

 

 

……と、ここまで書いてきた私,実は未だ『デジタルネイチャー』を読んでおりません。

どう考えてもヤバい。厚顔無恥の極みです。

でもちゃんと最初にただの感想だよって言い訳したもんね。

読了後,的外れなことを言ってたなあと思ったらひっそりと書き直します。

 

あと本当は後期近代の特徴とか最近の本質主義の高まりについてとか,関連させてもっと話を広げたかったのですが,完全に技量が足りませんでした!

唐突に集合意識を持ってくる感じも不自然ですね。

大学生になってから書きたい内容をいかに長ったらしく複雑に表現してレポートの文字数を稼ぐかという不毛な戦いばかりしてきたせいで,読む人にわかりやすく伝えるという真逆の力が衰えてしまった気がします。

話を展開させつつ綺麗に説明しつつ上手にまとめられるようになりたいです,頑張ります。

 

ここまでお読みいただき,ありがとうございました!