どんな言葉で君を愛せば|oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

「顔ない」を理解した日

趣味は何ですか、そう尋ねられ読書と答えることがまずない。仕事とミニマルな暮らし以外の部分で、最も時間やお金を割くものが趣味だとして、ここ数年のわたしはライブやコンサートに行っていることを一番にあげていた。

 

好きなバンドのライブや出演フェス、クラシックコンサート、それに時々アイドルのコンサートを合わせて年間で60本程度。均すとおよそ毎週何かしらに行っている計算だ。あまり深く考えないようにしているが、その内何割かは遠征で、下手な旅行好きより旅費も嵩んでいる可能性が高い。これがわたしの思う趣味──生活以外の部分で最も時間やお金を割くもの──の中で、ライブの地位を強く押し上げる。

物販やライブ前のCD購入にかかる支出もこの鑑賞趣味(推し活という言い方が好きではないため)に含められるだろうが、長崎や北海道など遠方への旅費、頻発する大阪遠征3万円〜等を考えれば可愛いもの。

 

おたくが全員きもちわるいのは前提として、推しの力が購買と動員で測られる以上は、きもちわるいおたくの中でも大枚叩けてフットワーク軽いおたくがいい思いをするのは至極当然だと思っている

愛はお金か、お金が愛か - どんな言葉で君を愛せば|oyasumitte

 

現場主義だが、現場が用意されるのは先の動員と購買あってこそ……と、己の消費について多種多様な正当化を重ねながら、とにかくその瞬間しか見られないものを直接見て、そこでしか聞けない音を生で浴びたいという欲に正直に生きている。

 

仕事と生活以外の部分で、最も時間やお金を割くもの。わたしの趣味は、ライブやコンサートに行くことだ。読書ではない。

 

 

さて本日、趣味が読書だと言う後輩に「Kindleの既読が1年で30冊」とはにかまれた流れで、つい自分のそれを確かめてしまった。2025年、1,021冊───

 

わたしも本を読むのは好きで、読むときは紙派だ。

月に5冊以上の小説、それを含めて10冊以上を読むと決めて続けてきたが、これはほとんど紙で買うか借りるかして読む。一方、マンガはすべてKindle電子版で買うと決めている。

つまり私のKindle電子版の既読情報は、そのほとんどが漫画である。それが昨年は1,000冊。1冊大体800円として年間で……ひえ……

 

1冊800円で計算するのは、わたしのKindle購入分はほとんどがBLコミックだからだ。BL単行本の相場感はJUMP COMICSやそれより少し上のYOUNG JUMP COMICSより大分高めで、新刊の多くが800〜900円程度。それが1,000冊強。年間800,000円は支出を少なく見積もりたい足掻き込みの金額だ。

 

わたしの趣味は本を読むことでも漫画を読むことでもない、はずだった。

ライブやコンサートの次にあげるとしても、読むより飲む方だ。日本酒とワインが特に好きで、家で一人でも飲む。お酒のいいところは、まったく飲まない人の方が少ないので話が転がりやすいこと。

あとは最近ハマっていることの題目なら、ピクミンブルーム。ピクミンを働かせ、ピクミンに歩かされるアプリ。無課金とはいえこのところ生活を徒歩中心に変えられているので、ピクミンは趣味と言える。これは健康的だし、家族や友人と楽しんでいる面もありとても人に言いやすかった。少なくともBLを読むことよりはずっと。

 

それでも昨年は読んでいたらしい。年間で120冊の本を、加えて約1,000冊のBLを。時間とお金をそれなりにかけて。

確かに遠征時、飛行機や新幹線には本を持ち込むし、公演の休憩や転換中の手持ち無沙汰な時間にもスマホで何かしら読んでいる。ライブやコンサートに行く裏にもずっと読むことが貼り付いていた。趣味ではないが中毒かもしれない。

 

 

そういうわけで、読書が趣味だとわたしより少ないkindleのライブラリを見せてくれた人に対して、見せられる画面も上げる顔もない。読む量の比較に意味はないがただ気まずい。

顔って本当に無くなるらしい

 

 

思ったよりBLに費やしていて呆然。きちんと振り返りをせずに年を越してしまうからこういうことになるのでしょう。

遅ればせながら、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ちなみに年間1,000冊読んでも、一番好きな漫画はまだ『囀る鳥は羽ばたかない』から変わりそうにありません

『自己愛過剰社会』 特別だという愛と呪い

以下、劇場版呪術廻戦渋谷事変特別編集版のネタバレがあります

 

 

「禪院じゃねぇのか よかったな」

『呪術廻戦』13巻、第113話。降霊術で再臨した父・伏黒甚爾が、子・伏黒恵をそうと知らず襲う最中、正気に戻ると同時に相手が息子であると悟り、自決する。そして息子は終ぞ、それが父であったと知ることはない───

 

▽『呪術廻戦』 137話分無料公開 2026/01/08まで

魂さえ上書きする天与の肉体

暴走した術式さえ彼の前では

 

そう。「禪院じゃねえのか よかったな」。

今際のキワッキワの際に見せる甚爾(の肉体と魂)のデカツヨな父性が、全ての素行を上書きして有り余るほどメロい、という話がしたい。

どうでもいいが、ここは甚爾が恵に立場を明かさず黙って去る一方通行具合が父性のメロさを爆発させていると思っているので、伏黒親子が親子として会話する二次創作が頻繁に流れてくるXでは息ができずにいる

 

とにかくわたしはこの伏黒親子の邂逅シーンが好きで、この描写があったが故に、伏黒甚爾というキャラクターが作品内で一番好きだ。

どうしてもIMAXで見たくて、劇場版呪術廻戦渋谷事変特別編集版を見に映画館に行った。3回見た

 

該当シーンは渋谷事変ダイジェストの後半で登場し、BGMのKing Gnu「SPECIALZ」と共に終わる。

父のバカデカい愛を目の当たりにした瞬間、続け様にバカデカい愛の詞「誰が如何言おうと “U R MY SPECIAL”」をお見舞いされるのである

 

わかっている。このシーンを、完結した原作を知っている。歌詞だって伏黒親子に当て書きされたわけでもないのを知っている。2回目以降はその演出だってわかっていた。

それでも新鮮に打ち震える。3回見て3回泣いた

 

 

「俺が名付けたんだった」

さて、「愛ほど歪んだ呪いはないよ」とは同作品の有名な台詞だったけれど、愛とは実際何だろう。呪いだろうか。

少なくともわたしは、親が子にお前は特別だと言うこと、言わずともその思いを込めて接すること、それは愛だと思ってきた。自分が親にそんなふうに言われたことはないけれど、思うより大事に思われていたらしいという事実に支えられたのは一度や二度ではない

 

件のメロい父・伏黒甚爾は、生前息子の名前について「俺が名付けたんだった」と明かしている。妻の死後は、自分になかった才能をもつ息子を実家に戻すよう取り計らった。重ねて一度目の死に際、最期に言い残すことはあるかと問われた際にも、相手に託すように息子の存在を明らかにしている。

降霊術で父の肉体と魂の情報をもった何かとして現れた二度目の死に際にも、息子が自分を否定した家の名を継いでいないことに安堵しながら消えた。

 

子の幸せを祈り名前をつけること、死に際に子を思うこと。これらはわたしの中では絶対に愛だ。

そう、名付け───

 

名づけの風習はいつの時代も世界の文化の中心にあった。子供のために選ぶ名前は、選んだ人の強い願いを表している。

(『自己愛過剰社会』pp.220-221)

 

最近この『自己愛過剰社会』を読んだ。わたしの中で自己愛と神とが熱いトピックなので、100%のタイトル買いである。

神のような外部存在の不在と人間至上主義ひいては自己愛賛美の流れは切り離して語れず、最近わたしが買った本は『神は、脳がつくった――200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源』やら『宗教社会学: 神、それは社会である』やら、タイトルが神に塗れてスピったような感じになっている

 

そういう流れで読んだ本書『自己愛過剰社会』は2011年、約15年前のアメリカ社会に蔓延っていたナルシシズムについて書かれた本だが、2025年の日本に生きる者としても耳の痛い話が多い。

 

近頃も一部インターネットで賛否を呼んだ、高学歴は推し活をしない説を唱えるnoteに「彼らの情熱は自分自身を拡張し飾り立て強化することに向けられる。いわば自分自身を推す活動である」と書かれているのを見て、あまりに純粋な自己愛的記述に感動したばかりだ。

自分自身にしか関心がないと声高に言って憚らない、その態度が笑われない御自愛社会でよかったと思う。自分の人生に関係があるかどうかに興味が左右される、その感覚がわからないでもない私も、同じ社会を生きている

 

 

本書の特徴として、自己愛性人格障害ではなく、一般的な自己愛性パーソナリティの特性に注目して書かれているところがよかった。障害と診断を下されるほどではないが、本人にも周囲にもよくない結果をもたらすナルシスト的な態度の流行は、長期的に見れば社会に害を及ぼすという。

 

暴力、他者への思いやりの不足、浅薄な価値観など、アメリカ人が自尊心を高めて食い止めようとしていることは、実のところほぼすべてがナルシシズムに起因している。自尊心をもち、自己表現や「自分を好きになること」ができる社会を築こうとするうちに、アメリカ人はうかつにも大勢のナルシストを生み、さらに誰もが彼らに似た振る舞いをする文化を築いてしまった。この本は、よいことと思われていた自尊心が私たちすべてをむしばむナルシシズムへと変容していく様子をたどるアメリカ文化の年代記である。(『自己愛過剰社会』pp.16-17)

 

先の引用のとおり、まさに私が愛だと思う親の名付けや、子にかける言葉についても言及がある。

アメリカの子供に個性的な名前が増える傾向について、それ自体が悪いものではないとしつつも、人と違う個性的な人になってほしいという思いから変わった名前を付けるのであれば、それはナルシシズム流行病の症状だという。「自分の子供が抜きん出ることを願うあまり、生まれたときから目立つラベルを貼ろうとする」と。 

 

1989年発刊のベストセラー自己啓発本『完訳 7つの習慣 人格主義の回復: Powerful Lessons in Personal Change』が既に、個性主義を否定していたことを思い出す。自己愛、ポッと出の新しいトピックではない

 

 

誰が如何言おうと YOU ARE MY SPECIAL

特別とは、すぐれているというニュアンスが加わった個性のことだ。特別な人は個性的なだけではなく、すぐれているのである(ただし「特別支援」とか、私たちのネット調査への無神経な回答にあったように「特別学級用スクールバス」という場合は別)。(略)

自分を特別だと思うのはナルシシズムである。自尊心でも自信でもないし、子供に育んでやるべきものでもない。ナルシシズムと自信は違う。(『自己愛過剰社会』pp.228-229)

 

本書の中、あなたは特別だと言われ続けナルシシズムと共に育った子供が、特別扱いされない社会に挫折感を覚えるくだりで、わたしはキュウソネコカミというバンドの楽曲「越えていけ」を思い出していた。

「気付いちまった自分は特別では無い 普通の人間ってことに」

学生時代に共感を覚えて聞いたという告白をするにあたり気恥ずかしい点がある。特別ではないと気付いてしまったとは、自らを特別だと思いもしなかった人は決して言わないのだ。モラトリアムというか中二というか……

そして続く「誰の人生だ お前の人生だ」や「才能なんて 運命なんて 後付け」といった歌詞を私が受け止められるのは、現代が封建社会などではなく、誰でも何にでもなれると子供に広く教える社会だから。

 

全員が特別というのはありえなくても、誰にでも個性はある。(略)

個性も、強調しすぎはためにならない。個性的だと聞かされ続けたティーンエイジャーは、自分は誰にも理解してもらえないと思い込んでいることが研究からわかっている。こうした子供は鬱になって自殺を考える可能性が著しく高い。成長するにつれて悩みは深くなり、個性が強すぎて誰にもわかってもらえないという思いから抜け出せずにいたのである。

しかし、例外を一つ紹介しよう。子供は親にとって非常に特別な存在だということだ。(『自己愛過剰社会』p.230)

 

あなたにしかできない仕事だの、好きなことをして生きるだの、適職とか適性とか働きがいとか人生の目的とか、用法容量によっては呪いになり得る言葉の海に生きている。

本質的に特別な人などいない。

ただ誰もが、その人を思う誰かにとって特別な存在で、その最たるものが親にとっての子である。

子は親にとって特別な存在だが、他の誰かがその子を特別扱いしなければならないことはない。お前は特別だと言い続けることが、子にナルシシズムを芽生えさせ、孤立させたり鬱にさせたりすることに繋がるのなら、確かにそれはもう呪いと呼んでも良いのかもしれない

 

でも、あなたは「私の」特別だと言うのは違う。ナルシシズムを助長する呪いの言葉ではない。ただの告白。やっぱりわたしは“YOU ARE MY SPECIAL”は愛の言葉だと思う

 

 

結局、伏黒甚爾が一番メロいです

愛はお金か、お金が愛か

おたくである私のXのタイムラインには時折、他のおたくの「コンサートツアー全通したとか、公式グッズをこれだけ買ったとか、そういうかけたお金だけが愛みたいな感覚は苦手」とか、「課金額で愛を測られる今の風潮はよくない」とかいった鳴き声が紛れ込んでくる。

なるほどね。わかります。顧客の過剰な競争意識を煽るのは良くないということで風営法が厳しくなってホストの看板も変わったそうですね。

 

一方で私は、おたくが全員きもちわるいのは前提として、推しの力が購買と動員で測られる以上は、きもちわるいおたくの中でも大枚叩けてフットワーク軽いおたくがいい思いをするのは至極当然だと思っている。

 

多様な形態で発売されるCDを一枚だけ選んで買うおたくより全形態を沢山買うおたくがえらいし、涼しい部屋でXを見ているおたくよりも、ライブに行って公式ツアーグッズを爆買いするおたくの方がえらい。SNSに大量の購入済みグッズの写真をアップするおたくの方が、それを見てグッズ量でマウントをとるのは云々言っているおたくよりも、絶対にえらい。

概念的には飛行機のファーストクラスとエコノミーの関係だ。大枚叩けてフットワークの軽い重課金勢がいなければ、その推しや推しコンテンツの活動は続かない。テレビで見るだけ、ライブに時々行くだけという応援の仕方をしていることに劣等感を抱く必要はないけれど、それを正当化するために、きちんと公式にお金を落としている人たちを貶める権利だってない。

 

「お金で愛を試されるのが無理」とかいう表現は完全に自意識過剰だし、挙句そのために生身の人間のキャラクター化の否定なんてことをしだすアイドルおたくもいて、どこまで遡ってあなた自身が浸かっている文化を否定するつもりでしょうか。

もしかしたら、アイドルって言葉は本来偶像という意味なのもご存知ない?

理想的な表層だけ見せてくれる職業の人をつかまえて「私は人間性を見て一人の人間として推してる」と言う方がまともだと思っている、その感覚の方が危うい可能性もあると思います。

 

一方でわたしも「お前の好きな漫画のキャラクターをイメージしたハーブティーですから買いなさい!」と発売されるティーバッグはべつに要らないなと思ってしまったり、原作漫画は大好きでもメディアミックスは刺さらなかったり正直アクスタなんていらなかったりしてしまう方ではあるので、「グッズ買うのがえらいわけ?」と腐したくなる気持ちも、わからないのではないですが。

 

一口に課金と言っても、公式ぬいぐるみの非公式着せ替えとか同人誌とか、推しの購買させ力としてはカウントされないところでの課金は話が違うしなとか。新規購入せずにはるか昔のグッズを持ち出して古参顔している人って、メーカーがその事業を閉じるときに「壊れないので20年愛用してます」とか言って大昔の製品を載せることでその後課金しなかったことを匂わせる何とも言えない投稿もしてそうだなとか、思ってしまう。思ってしまうけれど、どれが愛なのか決める権利は別に誰にもないしなあ。

健全さを欠いた重課金を“推し活”などというライトな表現でぼかすのもどうかと思う事例も、おたくの立場の弱さに漬け込む公式の不誠実さが目立つ事例もあり、確かに難しい話ではある。

 

ただとにかく、ちゃんと公式にお金を落とし続けて、イベントがあれば実際に繰り返し足を運んで、企業からCM起用されればその商品をとにかく買い、TVerやYouTubeの再生数も回して、推しの購買させ力と動員数に貢献していくおたくが一番えらいのは揺るがない。どんなジャンルでも。そう思っています