どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

泣かないでと百回つぶやく

大丈夫。大丈夫よ。大したことないわ。

ちょっとよろめいただけで、どこも怪我していないじゃない。この世の終わりみたいな顔してどうしたの。大袈裟ね。優しく「大丈夫?痛かったね」なんて言ってほしかったのかしら。

不意にあらわれた扉に向けて、咄嗟に伸ばした手が届かなかっただけ。夢中で身を乗り出したから、それが幻みたいに消えてしまって多少体勢を崩したかもしれないけれど、なにも崖から落ちたってわけじゃないのよ。これまで歩いてきた道が同じように足下にあるの。今だってそこにしっかり立っているのよね。それなのに、どうしてそんな顔をしているの。

何もかも間違っていた、そんなことはきっとないわ。もうどうしようもないなんてことも、多分ないのよ。

大丈夫。あなたはちゃんと歩いてきたし、まだ歩けるわ。この先でまた同じ扉に巡り合うとは限らないけれど、歩いていかなくちゃこのまま永遠に見失うことは確かなの。

ねえ、だからお願い、泣かないで。私まだ歩けるわ

「愛っていうのは言葉でも気持ちでもなく、行動のことだと思う」

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7月23日、Zepp ShinjukuでMOROHAのワンマン MOROHA V RELEASE LIVEを見た。

お湯落ちマスカラが全て落ちてすっぴん同然になるまで泣いた。彼らのライブを生で見るのは二度目。一度目も泣いていたから、二分の二、泣いたことになる。二度あることは三度あると言うし、多分私は次も泣くだろう。人に会えない顔になって、眼鏡とマスクをつけて帰る。誰かを誘って行けるのは当分先になりそう。

 

長崎でMOROHAを見た日

MOROHAを最初に聞いたのは、一年前、私の好きなバンドが主催するフェス(BLAZE UP NAGASAKI)に彼らの出演が決まったときだった。公式の予習プレイリストに、彼らの代表曲「革命」が入っていて、これは私向きの音楽じゃないと大して聞きもせず飛ばしたことを覚えている。ポエトリーリーディングもラップも、今まで自分が好んで聞いてきた音楽とあまりにも違って、どう楽しめばいいのかよくわからなかったのだ。声も苦手だったかもしれない。

とにかく私はMOROHAにスッとはまれないまま、長崎で初めてそのライブを見ることになった。

 

ステージに男性が二人。前に出ていたバンドより随分聴衆が少ないことを自虐的に、ふざけている風ではなく笑って、それが音楽になっていた。音楽に聞こえた。それはアドリブ混じりの「チャンプロード」という曲だったから、当然音楽なのだけれど、私の中では音源を聞いたときに音楽として飲み込めなかったものだった。

ギターは素人目にもわかるほど上手くて、坊主の人は怖いくらい汗をかいていて妙に切実で。一言で言うなら、怖かった。怖くてかっこよくて、リハーサルが終わる頃には、同様に惹きつけられたらしい多くの人がステージ前に戻ってきていた。

リハーサルと本番の境は、言われてみればあそこだったかと思うほどに曖昧で、そんな本番の一曲目があの「革命」だった。

私は気づいたら泣いていた。怖い。最初に聞いたとき受け付けなかった音楽を生で聞いたら感動で涙が止まらなくなったことがある人はわかると思うが、これはとんでもなく怖いことだ。自分が何をされたのかわからない。無理がどうして感涙になる?

女の子が怯えているのでラブソングをやります、という前フリで始まった「花向」という曲も別の意味で怖かった。さっきまでいかに自分がヤバいのかを熱く叫んでいた人が、本当は 帰らないでほしかったんじゃなくて 君の 帰る場所になりたかった などとロマンチックに歌うのだ。情緒不安定にもなる。

こちらは不倫なんてしていないのに、もしかしたらしたことがあったんじゃないかと思ってしまうくらい、どうしてか泣いてしまう。私の両隣も泣いていた。優しいその歌が終わったときにステージ上から放たれた台詞は、今泣いている人たちは多分不倫してます、だった。泣きながら笑った。情緒不安定にもなる!

 

愛の話

私は好きなバンドを見に行った11月の長崎で、好きなバンドに呼ばれていたMOROHAに情緒をめちゃくちゃにされ、そして7月に東京でMOROHAのリリース記念ワンマンを見るに至った。

その日、7月23日に発表されたリリースツアー追加公演の中には、長崎公演があった。

「長崎にはもう来られないと思ってた。(略)だけど、SHANKに襟首を掴まれた。長崎忘れてないか?って。まんまと思い出してしまった。Studio Do!に帰りたくなってしまった。来年、必ずツアーで来ようと思います。愛っていうのは言葉でも気持ちでもなく、行動のことだと思う。SHANKの愛に応えたいと思ってます」

身じろぎすら許さない静寂が最大の賛辞。愛とは何かを自分に問い続ける痛切なライヴ | BLAZEUPNAGASAKI

そう宣言されるのを、あの日長崎で確かに聞いた。

「愛っていうのは言葉でも気持ちでもなく、行動のことだと思う」。一年前に長崎でそう言っていて、今年の冬には本当にツアーで長崎に行く坊主の人の名前はMCアフロで、横でギターを弾いている人はUKというらしいです。

 

最後までお付き合いいただきありがとうございます。「tomorrow」が一番好きなささやかでした

好きな人がダサいと悲しい

ツイッター(以下、Xとする)の一部のアカウントを見ると心がざわつく。

私人間のトラブルを大事にして私刑を促していたり、ナンパした相手の盗撮写真を載せていたり、芸能人やインフルエンサーの見目麗しい画像を用いてインプレッション稼いでリプライに自分の情報商材を吊していたり、数千円にしか見えない洋服に「数万円くらいしそうなのに○○円でコスパ良すぎ◎」と書いて購入リンクに誘導していたり、ハイブランドの現行品を持っている人がそれを模倣している安物の鞄を「可愛いのに安すぎ♡」と勧めていたり。

角度も程度も様々な不誠実が、見ようとしなくても目に入らない日はないほどXに蔓延っている。

 

そういう不誠実なXアカウントが嫌いだ。

ただ、理解はできる。私みたいな一部の人間に嫌われようが、閲覧数とフォロワー数が増えればアフィリエイトが捗って直接的に稼げて良い、という自己利益を何よりも優先した判断については想像がつく。私には選べないが、その生き方もあるよなとは思うのだ。

悲しくなるのは、露悪趣味だったり明らかに不誠実であったりするXアカウントを、自分が少なからず好意的に見ていた人がフォローしているとわかったときだ。どうして……と思う

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またXでそういう不誠実さに当たったときに、他人の肖像権や著作権が、名誉毀損がと、法律の問題にして批判する人も散見される。それは正しくはあるのだ。無論、写真の無断利用などで著作権を侵害されている本人は法律で叩くのが最も良いだろう。

でも傍観者としては、ダサいの一言の方が強いこともあると思う。自己の利益だけを追求する不誠実さも露悪的な態度も、ダサいのだ。肖像権の問題でツッコまれたアフィリエイターが、芸能人の写真を使うことをやめて、商業利用可能なAIで生成した架空の美女でインプレッション稼いで宣伝ツイ…ではなく宣伝投稿を連ねても、ダサくなくなるわけではないだろう。

良くないことだから批判されるのではなくて、批判されるから良くないことになる。ダサさも同じで、根拠は結局後付けだ。

「それってあなたの感想ですよね」と冷笑されても構わない。公園に毒入りの餌を置いてネコを死なせるのがどうして悪いのか。ネコの命を奪うのは悪いから悪いと思うのが単なる感想で、「それは器物損壊罪や動物愛護法違反にあたるからだ」と言い切るのが感想で喋らないということなら、私はXでは感想を書いて笑われていたい。悪いことは悪いし、ダサいことはダサい。

 

私人間のトラブルを大事にして私刑を促していたり、ナンパした相手の盗撮写真を載せていたり、数千円にしか見えない洋服を「数万円くらいしそうなのに○○円でコスパ良すぎ◎」って購入リンクに誘導していたり、芸能人やインフルエンサーの見目麗しい画像を用いてインプレッション稼いでリプライに自分の情報商材を吊していたり、ハイブランドの現行品を持っている人がそれを模倣している安物の鞄を「可愛いのに安すぎ♡」と勧めていたり。

そんな目に見える悪意や極端な自己利益の追求に、自分の好きな人が乗じていたら私は勝手に悲しくなる。

 

X上のフォローがすべて賛同の表明ではなく、悪趣味なのはわかっていて心理的には距離をとりながらウォッチングしているという意識で見ている人もいることはわかっている。それはそれで、悪趣味なのがわかっているのにそれが自然に目に入るようにしているんだ……どうして……という、別の寂しさが出てくるだけだ。

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XのアカウントはあくまでもXのアカウントでしかなく、生身の私たちではない。でも私がXで書き出す感情もXで目にする悪意も、生身の私が見ている。肉体が食べたものでつくられるように、精神も見聞きしたことによってつくられるのではないか。

たとえば何だか嫌な感じの人がインターネットで暴露されたり悪く言われたりするのを見てちょっとすっきりしてしまうのとか、お水の女の子たちがお客さんやスポンサーをこき下ろす悪口を面白がってしまうのとか、わかる。少しわかってしまう。そういう時期はある。でも若い頃に一定そういう一面的な悪意を楽しんだとしても、次にはその少しの爽快さと「これって善いことなんだっけ?」の間で揉まれて、そのうち、いや自分が一瞬気持ちよくなるためにこんなこと言うのもそれを笑うのも良くはないじゃんとか、一方的に言われている側にも何か事情があるんだろうなとか、思ってしまうようになると思うのだ。

わざわざ好んで悪意や自己利益の追求に満ちた投稿を見るときに、見たことが自分の意識の一部になること、少なくとも自分が影響を受けるかもしれないことに自覚的でないとしたら、それはちょっと若すぎるのではないかしら。

 

種類も程度も区別せずに不誠実さと悪意の話をしたので、随分話が散らかってしまった。とにかく私は、いい年してスカッと感に精神を支配されている人や、露悪的だったり不誠実だったりするアカウントのことをダサいと思っている。

ダサいアカウントは無くならない。ダサくても稼げる方を選ぶ人の、その選択は否定できない。ダサいところが全く無い人はいないけれど、そんなわざわざダサいところだけ煮詰めたような人格を視界に入れたくない、というのが私の感想でしかない自覚はある。

でも小銭稼ぎやスカッと感に呑まれてダサくなっている人をフォローという形で支持している人の、ダサくなっている人を支持している部分だけは多分ずっと受け入れられずにいくのだと思う。

 

好きな人がダサい人を好きだと好きな人までダサく見えてきてしまって悲しいという話でした。最後までお付き合いいただいた方、ありがとうございます。おやすみなさい。