どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

わたし史上一番変なあだ名「おまもり」

学生の頃、好きだった男の車によく乗っていた。その日も私は、彼の車に乗っているはずだったのだ。約束の内容も理由も覚えていないのだけれど、とにかく乗るはずだった私を乗せずに車を走らせていた彼が偶然交通事故に遭う。今思えばわりとしっかり不謹慎だが、仲間内で私を彼の「(交通安全)おまもり」と呼ぶノリがあった。ほんの一瞬のあいだ。


誰にも多分そういう、究極の内輪ネタで一時的に呼ばれたあだ名みたいなものがあると思う。呼んだ側もすっかり忘れていて、そのメンバーで5時間くらい飲めばもしかしたらそんな話題も掘り起こされることがあるかしら、程度の存在感しかない記憶。

わたしは好きな人のそういう話を聞くのが大好きだ。隙あらば自分語りをしてほしい。なんなら隙がなくても差し込んできてほしい。聞いたところで面白くはなくて、当然学ぶようなことだって何もなくて。そういう何にもならない話をずっと聞いていたい。

 

書いてみて改めて思うけれど、好きな人のそういう話を聞くのが好きだという言い方は、あまり誠実ではない気がする。事実として、そういう話を延々と楽しく聞けるような相手へ私が向ける感情は、好意でしかあり得ない。多分正しいのは後者の表現だけれど、それだと可愛げがないので「好きな人の自分語りが大好き♡」と言うようにしています。

何が言いたいかというと、私は自分が大好きな人たちの自分語りしか楽しく聞けないからこそ、私のこんな自分語りに付き合ってくれるみんなたちには感謝しかないのよということです。今年もお世話になりました。ラブ!よいお年を!

「初対面だが 俺はすでに君のことが嫌いだ」

失礼な人が苦手、つまり好きだということです

25年も生きていると、自分の考えていること、見聞きしたこと、すべてを話せる相手なんていなくなる。ただ何をどこまで話すか、その広さや深さは当然相手との親しさによって変わり、限りなくすべてに近い大部分を話せる相手はいる。一方で、その全てではないほとんどを話せる間柄でさえ、交友関係を広げたところで劇的に増えることはない。

そもそもそこまでの親密さに限らず、「個人的に会ったことがある」以上に誰かと距離が近付くこと自体が、大人になると然程多くない。これには勿論わたし自身の性格も大きく関わっていて、もっと上手くやる人がいることもわかっている。

私は、名字さん、或いはさやかさんと呼ばれるのが好きだ。自分の方が年上なのに私に敬語を使ってくれる人が好きだ。人あたりが良く、丁寧で、礼儀正しい人が好きだ。

親しくない人から名前を呼び捨てにされるのが苦手だ。初対面でいきなりタメ口で話しかけられるのも、あまり好ましくは感じない。最初から馴れ馴れしくてデリカシーのない人が、はっきり言って好きではない。

ずっとそう思ってきたし、今でも思っている。それなのに振り返ると、私はそんな好ましくない人たちに救われてばかりだった。こちらが敬称をつけることで、敬語を用いることで引いた一線の中に、土足で踏み入ってくる勇気。優しさと言ってもいいかもしれない。結局それにいつも惹かれてきた。苦手な人との方が、そうでない人とよりも仲良くなれたことが多い。結果的には。変な話だけれど。

とはいえ、デリカシーのない人を好きなタイプとしてあげることはできないのよね。苦手だ〜と感じてそのまま終わる関係も少なくないので。じゃあ失礼な人や距離感がバグっている人を好きになるか嫌いになるか、その違いはどこにあるのかと考えると……身も蓋もなくてあまり言葉にしたくないところに行き着きそう。

この先は話す相手を選びたいのでここでおしまいです

最悪の結果は悪意を必要としていない

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“I'm sorry, I never meant to be like this”

こんな情けない人間になるはずじゃなかった。あんなかたちで君を傷つけるつもりはなかった。あなたが僕から離れていくなんて、思っていなかった。男性がそんな風に後悔する歌が好きだ。

 

そんなつもりじゃなかった。結果的には、こうなってしまっているけれど。そういうことは、いくらでもある。

 

大抵の人は、普通に生きて普通に歳を重ねれば、遅かれ早かれ、人生はすべて自分の思うままには進まないと悟る。約束や秘密は守られなかったり、丁寧に選んだ言葉はまっすぐ受け取られなかったり、思いやりは時にお節介や迷惑になったりしてしまう。自分が誰よりも優しくしたいあの子は別の誰かに振り回されていつも泣いていたり、苦しいけれど幸せだと本人に言われてどうしようもなくなったりする。人に優しくして誰かに慕われたら、今度は多くの人に好かれていることを理由としてひどく疎まれたり、部下を励まそうとしてかけた一言がハラスメントにあたって人望を失ったり、悲しいけれどそういうことは幾らでもある。

 

思惑と選択と結果は、いつも直線では繋がらない。繋がらないのに、結果だけを見て真っ直ぐ遡ろうとすれば、そこに成立する筋書きは事実とは異なってしまう。はっきり言って私は、好ましくない結果の背後に必ず誰かの悪意を見出そうとする姿勢が、好きではない。

「このルールを作った人は、こういう弊害が起こることを予測できなかったのか?頭が悪いのか?」と思うことと、「こんなルールを作った人間は邪悪だ」と思い込むことは、私の中では全く違う。「邪悪だ」の前には、この人は計算尽くで悪意をもって実行したはずであるという括弧書きが見える。

この世に頭の悪い悪魔はいるのだろうか|さやか|note

結果としては、男性を中心としてまわってきた社会は、男性と同じ成功を望む女性に不利な状況をもたらしたかもしれない。

結果的には、ある女子大生は自分の子を手にかけた後で平然とカフェに立ち寄り、何事もなかったかのようにふるまったかもしれない。

犯行直後にアップルパイを購入し、撮影してから食べたのは、彼女が悪魔のような犯罪者だったからだろうか。それとも彼女が普通の人間だったからこそ、尋常でない事態を受け止めきれず、正常性バイアスが働いてそのような行動に至ったのだろうか。

悪魔的な味|さやか|note

すべては儘ならないものと痛感しているはずの私たちが、見えた結果だけから逆算してそこにあった動機を思うのが、常に賢い営みであるとは思えない。ただ実際、頻繁に採用されている物の見方ではある。

 

話を戻そう。そんなつもりじゃなかった。結果的には、こうなってしまっているけれど。そういうことはいくらでもある。

「一旦友達になりたい」と振られたことがある。振るときに「人としては好きなあなたとの関係をすべて失いたくない」と言ってしまったことがある。 どちらも今振り返ると言った方は、ただ一緒にいた相手と離れるに際しての寂しさから、都合の良いかたちで引き止めておこうとしただけだった。結果的にはそうだ。でも当時は違った。本当にいい友達でいたいと思っていたし、いられると思っていた。

 

長々と書いてきたけれど、言いたいことはこれに尽きる。最悪な結果は、べつに悪意を必要としない。

「一回距離をおいてから復縁も考えたい」と言う人は、おそらくその瞬間に悪意をもってあなたをキープしようとはしていない。それでも結果として、あなたが都合よく扱われてしまったという事実だけが残る蓋然性は高いということ。

 

「あなたが大事な人であることには変わりない」、そんなふうに言われたあなたは、彼/彼女が、自分をキープしようとしたりするような人ではないと確信しているでしょう。そして実際、ほとんどの場合でそれは正しいかもしれない。

でも一般的・客観的に見たときに、あるいはいつか先の自分が振り返ったときに、結果から遡った自分や相手の言動の動機は異なって見える確率が高い。私はその見方が好きではないけれど、第三者や冷静になった自分が見出す悪意に、傷つくことになる可能性はある。逆の立場なら、無かった悪意を見出され恨まれてしまうこともあるだろう。

 

これは可能性の話でしかないし、人は自分だけは大丈夫と思うようにできているから、まだ好きな人に「別れても君を人生から失いたくない」と言われている誰かに、この言葉が響くとも正直思わない。

さらに、後々都合よく振り回されてしまったと感じても、それをもって過去を否定する必要はないし、すべきでもないと思っている。先に書いたように、そこに悪意があったかどうかは、当時のあなたが一番わかっているはずだし。周りからどう見えても自分は相手を好きで、きっと後悔しないと思うのならば、誰にも止める権利はない。

 

それでもやはり、もどかしくは思う。

あなたが傷つくとき、そこに相手の悪意は必要ない。逆も然り。そんなつもりじゃなかったのに、結果としてあなたが相手を振り回して、怒りを買うかもしれない。私は、自分にとって大事な人には、避けられる問題は避けて器用に生きてほしいと思ってしまう。

そんなつもりじゃなかった。結果的には、こうなってしまっているけれど。そういうことはいくらでもあるし、元恋人に「君を人生から失いたくない」と別れ際に言ったり言われたりするのは、そういうことが始まる合図の最たるものだと思う。それをわかった上であなたが決めることに、他人である私が口を挟む余地はないし、ご多幸をお祈り申し上げるのみです