どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

「初対面だが 俺はすでに君のことが嫌いだ」

失礼な人が苦手、つまり好きだということです

25年も生きていると、自分の考えていること、見聞きしたこと、すべてを話せる相手なんていなくなる。ただ何をどこまで話すか、その広さや深さは当然相手との親しさによって変わり、限りなくすべてに近い大部分を話せる相手はいる。一方で、その全てではないほとんどを話せる間柄でさえ、交友関係を広げたところで劇的に増えることはない。

そもそもそこまでの親密さに限らず、「個人的に会ったことがある」以上に誰かと距離が近付くこと自体が、大人になると然程多くない。これには勿論わたし自身の性格も大きく関わっていて、もっと上手くやる人がいることもわかっている。

私は、名字さん、或いはさやかさんと呼ばれるのが好きだ。自分の方が年上なのに私に敬語を使ってくれる人が好きだ。人あたりが良く、丁寧で、礼儀正しい人が好きだ。

親しくない人から名前を呼び捨てにされるのが苦手だ。初対面でいきなりタメ口で話しかけられるのも、あまり好ましくは感じない。最初から馴れ馴れしくてデリカシーのない人が、はっきり言って好きではない。

ずっとそう思ってきたし、今でも思っている。それなのに振り返ると、私はそんな好ましくない人たちに救われてばかりだった。こちらが敬称をつけることで、敬語を用いることで引いた一線の中に、土足で踏み入ってくる勇気。優しさと言ってもいいかもしれない。結局それにいつも惹かれてきた。苦手な人との方が、そうでない人とよりも仲良くなれたことが多い。結果的には。変な話だけれど。

とはいえ、デリカシーのない人を好きなタイプとしてあげることはできないのよね。苦手だ〜と感じてそのまま終わる関係も少なくないので。じゃあ失礼な人や距離感がバグっている人を好きになるか嫌いになるか、その違いはどこにあるのかと考えると……身も蓋もなくてあまり言葉にしたくないところに行き着きそう。

この先は話す相手を選びたいのでここでおしまいです

最悪の結果は悪意を必要としていない

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“I'm sorry, I never meant to be like this”

こんな情けない人間になるはずじゃなかった。あんなかたちで君を傷つけるつもりはなかった。あなたが僕から離れていくなんて、思っていなかった。男性がそんな風に後悔する歌が好きだ。

 

そんなつもりじゃなかった。結果的には、こうなってしまっているけれど。そういうことは、いくらでもある。

 

大抵の人は、普通に生きて普通に歳を重ねれば、遅かれ早かれ、人生はすべて自分の思うままには進まないと悟る。約束や秘密は守られなかったり、丁寧に選んだ言葉はまっすぐ受け取られなかったり、思いやりは時にお節介や迷惑になったりしてしまう。自分が誰よりも優しくしたいあの子は別の誰かに振り回されていつも泣いていたり、苦しいけれど幸せだと本人に言われてどうしようもなくなったりする。人に優しくして誰かに慕われたら、今度は多くの人に好かれていることを理由としてひどく疎まれたり、部下を励まそうとしてかけた一言がハラスメントにあたって人望を失ったり、悲しいけれどそういうことは幾らでもある。

 

思惑と選択と結果は、いつも直線では繋がらない。繋がらないのに、結果だけを見て真っ直ぐ遡ろうとすれば、そこに成立する筋書きは事実とは異なってしまう。はっきり言って私は、好ましくない結果の背後に必ず誰かの悪意を見出そうとする姿勢が、好きではない。

「このルールを作った人は、こういう弊害が起こることを予測できなかったのか?頭が悪いのか?」と思うことと、「こんなルールを作った人間は邪悪だ」と思い込むことは、私の中では全く違う。「邪悪だ」の前には、この人は計算尽くで悪意をもって実行したはずであるという括弧書きが見える。

この世に頭の悪い悪魔はいるのだろうか|さやか|note

結果としては、男性を中心としてまわってきた社会は、男性と同じ成功を望む女性に不利な状況をもたらしたかもしれない。

結果的には、ある女子大生は自分の子を手にかけた後で平然とカフェに立ち寄り、何事もなかったかのようにふるまったかもしれない。

犯行直後にアップルパイを購入し、撮影してから食べたのは、彼女が悪魔のような犯罪者だったからだろうか。それとも彼女が普通の人間だったからこそ、尋常でない事態を受け止めきれず、正常性バイアスが働いてそのような行動に至ったのだろうか。

悪魔的な味|さやか|note

すべては儘ならないものと痛感しているはずの私たちが、見えた結果だけから逆算してそこにあった動機を思うのが、常に賢い営みであるとは思えない。ただ実際、頻繁に採用されている物の見方ではある。

 

話を戻そう。そんなつもりじゃなかった。結果的には、こうなってしまっているけれど。そういうことはいくらでもある。

「一旦友達になりたい」と振られたことがある。振るときに「人としては好きなあなたとの関係をすべて失いたくない」と言ってしまったことがある。 どちらも今振り返ると言った方は、ただ一緒にいた相手と離れるに際しての寂しさから、都合の良いかたちで引き止めておこうとしただけだった。結果的にはそうだ。でも当時は違った。本当にいい友達でいたいと思っていたし、いられると思っていた。

 

長々と書いてきたけれど、言いたいことはこれに尽きる。最悪な結果は、べつに悪意を必要としない。

「一回距離をおいてから復縁も考えたい」と言う人は、おそらくその瞬間に悪意をもってあなたをキープしようとはしていない。それでも結果として、あなたが都合よく扱われてしまったという事実だけが残る蓋然性は高いということ。

 

「あなたが大事な人であることには変わりない」、そんなふうに言われたあなたは、彼/彼女が、自分をキープしようとしたりするような人ではないと確信しているでしょう。そして実際、ほとんどの場合でそれは正しいかもしれない。

でも一般的・客観的に見たときに、あるいはいつか先の自分が振り返ったときに、結果から遡った自分や相手の言動の動機は異なって見える確率が高い。私はその見方が好きではないけれど、第三者や冷静になった自分が見出す悪意に、傷つくことになる可能性はある。逆の立場なら、無かった悪意を見出され恨まれてしまうこともあるだろう。

 

これは可能性の話でしかないし、人は自分だけは大丈夫と思うようにできているから、まだ好きな人に「別れても君を人生から失いたくない」と言われている誰かに、この言葉が響くとも正直思わない。

さらに、後々都合よく振り回されてしまったと感じても、それをもって過去を否定する必要はないし、すべきでもないと思っている。先に書いたように、そこに悪意があったかどうかは、当時のあなたが一番わかっているはずだし。周りからどう見えても自分は相手を好きで、きっと後悔しないと思うのならば、誰にも止める権利はない。

 

それでもやはり、もどかしくは思う。

あなたが傷つくとき、そこに相手の悪意は必要ない。逆も然り。そんなつもりじゃなかったのに、結果としてあなたが相手を振り回して、怒りを買うかもしれない。私は、自分にとって大事な人には、避けられる問題は避けて器用に生きてほしいと思ってしまう。

そんなつもりじゃなかった。結果的には、こうなってしまっているけれど。そういうことはいくらでもあるし、元恋人に「君を人生から失いたくない」と別れ際に言ったり言われたりするのは、そういうことが始まる合図の最たるものだと思う。それをわかった上であなたが決めることに、他人である私が口を挟む余地はないし、ご多幸をお祈り申し上げるのみです

ほら、寝かせた方が美味しい鯛もあることだし

「異性の友人と関係を拗らせて気まずい!どうしたら元の『良い友達』に戻れるだろう?」。

そういう悩みを一度でも抱えたことがある人は、世のラブソングなんかを聞いている限りそれなりにいるのではないかと思うし、少なくとも私はある。あった。すっかり忘れていたのだけれど。

 

さて、ご存知のとおり世間には「鉄は熱いうちに打て」という諺がある。辞書を引くと「(鉄は熱して柔らかいうちに鍛えて有用な形につくりあげることから)①人も精神が柔軟性に富む若い時代に有益な教育を施さなければならないということのたとえ。②手遅れにならないうちに処置を講ぜよということのたとえ」と出てくる。

確かに人生においては、逃してはいけないタイミングがある。「チャンスの神様には前髪しかない」なんて言葉で例えられたりもするように。でも、そんな話ばかりでもない。全く同じ機会こそ無くとも、幸運は形を変えて巡り巡ってくる。

話を鉄に戻そう。熱いうちに鉄を打ったほうがいいのはあくまでも鉄を打つ人間が冷静なときであって、我を忘れたまま、熱くなっている鉄を何とかしようとしたところで、大火傷をするのが関の山だ。いや、鉄の話に戻しても何のことかさっぱりわからないな。

私が今回報告申し上げたいのは、時間にしか解決できない拗れというものが確かに存在しているようだということ。焼け石に水をかけても無駄だが、石を焼く火は範囲内で燃えるものが尽きれば消えるように、そして焼かれなくなった石は素手で拾えるほど冷えていくように、時間にまかせてさえおけば解消される問題があるのだ。

 

三年前、大学生だった私は拗らせていた。最近会った先輩に「拗らせてるね」と言われてしまった性癖のことではない。友人との関係を拗らせた。人間関係も生活圏もズブズブに被っている学部の男友達を好きになり、いろいろあって寝るようになり、いろいろあって拗れに拗れていた。

基本的には、異性とは一度寝たら寝たことがない異性には二度となれない、それ以上でも以下でもないと思っている。枕を交した程度で壊れるような関係性なんて、最初からなかったのと同じようなものだし、いい友達であることと男女の関係があることは余裕で両立する……というよりも、それぞれ独立した事象であると考えている。

ただ、学生時代に拗らせてしまった彼とは、いろいろあったのだ。いろいろ。性格の相性とかタイミングとか、とにかく全ての要素がお互いに望ましくない方向にはたらいた。当時の私は目の前で熱くなる鉄をどう扱っていいのかわからなかったし、今思えばそれは相手も同じだった。何とかしないといけないという焦りしかなくて、それは全く役に立たないどころか、却って状況を悪化させるような行動にばかり繋がっていたように思う。

どうしようもなかった。すっかり気まずくなったまま別れたし、今後一生気まずいものと思っていた。

 

時は流れ、三年後。気まずさに頭を抱えていたことも忘れた頃になって、ひょんなことから彼と再会した。拗らせ倒していたのが嘘みたいに楽しかった。三年間の私は、問題解決の為の努力は何もしていない。時は最良の薬。果報は寝て待て。待てば海路の日和あり。

実際、関係を拗らせた事実はどこまでいっても無くならない。でも「あの頃私たち拗れてたね」と笑えたとき、出会ってから数年を経た中で、今が一番いい関係だと感じた。

 

熱いまま打って整えようとするほど歪になっていく鉄の塊があって、修復するには万策尽きたと感じたら、諦めて寝かせる方が良いのかもしれない。諦めたことさえ忘れた頃に、冷えたそれを見つけて拾い上げて。そのときそれがどんな歪な形に成っていても、懐かしんだり笑い飛ばしたりすることができれば、十分に克服だとか関係の再構築という名前が似合う結果になっているような気がする。

寝て拗れた関係を三年寝かせた友人と、お寿司屋さんが五日寝かせて熟成させた金目鯛を食べ、その美味しさに感動しながら、そんなことを考えていた。

時間をかけなくても同じ結果になるのであれば、誰も鯛を寝かせたりしない。時間にしか成せないことがあるのだ。

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打ち損じた鉄のかたちは元通りにも理想形にもならないし、拗れた関係も寝かせたからと言って魚のように熟成はしないけれど、時間をおいて対象の熱をとったりそれと向き合う自分たちが年をとったりすることにはやっぱり意味がある。寝かせている間に、それを歪で可愛いと笑える自分たちになっていた。むしろ、拾い上げて振り返るときに愛おしく思うのは、案外綺麗に打たれた鉄より不細工な方だったりもする。

 

三年前の私へ。こんなことを言っても信じられないと思うけれど、今一生死ぬほど気まずいと思っているその男と「あの頃死ぬほど気まずかったね」と笑って話す日が来ます。来るし、そのとき私はあなたが彼を好きだった理由を思い出し理解こそすれ、同じように彼を好きになることはありません。大丈夫。全部大丈夫になるので安心して眠ってください。

最後までお読みくださったあなたへ。ありがとうございました。おやすみなさい、さやかでした