どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

認めたくなかった。会社に行くのが辛いこと

今の私の最大の悩みは、自分がマグロであることに由来していると今更気づいてしまった。今夜はそういう自分語りです。

ちなみにマグロってまな板の上の鯉ならぬベッドの上の……ではなく、泳ぎ続けないと酸素を取り込めなくて死んでしまう回遊魚の方です。為念。

 

特に根拠のない義務感

昔から、自分が努力とは思わないことを人にはそうとられることが多かったような気がします。中高生の頃も親は私に勉強しろとか言わなかったし、言われなかった私も自分がそんなに真面目にやっているとは思っていませんでした。

でもたとえば大学生になってからその時期を振り返って、友人に「さやかは本当によくやってたから合格したことに何の不思議もない」、母に「あの子達(下の兄弟)が言っても勉強しないことに気付いて、初めてあなたが当たり前にやってたことが当たり前じゃなかったと気付いた。今思うとよく頑張ってたね」とそれぞれ言われたのが印象に残っています。

そしてそれらの言葉を受けて、私も親と似たような感想を抱いたような気がするのです。自分がそれなりに“頑張っている”ように見えるらしいと知って驚きました。

ただ当然やるべきだという謎の強迫感に追われて、それから逃げるために何かをしてきただけで、自分の意識が高いとかストイックな性格をしているだとか、考えたこともなくて。それは社会人になってからも変わらず、

特に昨年秋頃までの間、働きながら毎日ジムに行ったり業務外の勉強をしたりしてきたのは、日々自己研鑽☆みたいなキラキラなノリではなく、ここでも謎の切迫感に追われていたから。

仕事に余裕があって早く帰れて自由な時間があるのに、その間にも働き続けて伸びていく人がいるのに、少しでも意味の有りそうなことをしないでいられるほど私は強い人間ではありません。ツイートの「単にそうしていないと気が狂いそうなだけ」は、我ながら中々的確な表現をしたな、と。

 

「会社に行くのが嫌」と言わなかった理由

以前から私の書くものを見てくださっている方はこいつずっと会社に行くのが楽しいとか言ってなかったかしら、と思ったかもしれません。

自分でもそう思ってツイートを遡ってみたら、会社や仕事に対して何かポジティブなことを言っていたのは案外昔でした。配属されたのは6月、上のツイートが7月で、8月頃にはなんだか不穏な感じになっていきます。この頃からは少しずつ上司に対する愚痴のようなものも増えていました。

これは当たり障りのない暮らしに幸せを見出していないからこそ出てきたものと思われます。

さらに、秋にはもっと顕著に自分の仕事に対してあまり良くない感情を抱くようになっていました。

 「毎日を会社と自宅(とジム)の往復だけ、しかも会社での仕事をそれほど負荷にも感じていない、という快適で健全で単調な暮らしをコンプレックスに感じる」

「辛くなければ頑張っていない、頑張っていない自分はダメだと思ってしまう」

「それなら激務な職を選べばよかったじゃないかというセルフツッコミで毎日心をこじらせて死にそうになっている」

映画「アイネクライネナハトムジーク」を見ました - どんな言葉で君を愛せば、

 

今この瞬間目の前にある生活における時間的拘束という意味でも、人生における目的という意味でも大きな存在感を放つ仕事。こんなに大事なものに対する悩みを、文章を書くのが好きだと言いながら今まではっきりと言語化してこなかったことにはもちろん理由があります。

シンプルに、向き合うのが怖かったからです。正面からこの問題を自分につきつけるのは危険だと、これもまた言葉にせずともわかっていました。だから推しをつくって会社に行くことを楽しもうとしたり、一緒に働く人たちのことが好きでその人たちの為に役に立ちたいと思うようにしてきました。まさしく自分を騙すように。

 

もう誤魔化しようがない

転機になったのは人事部教育担当との面談。この時期悩みがちな新卒のケアをするために設けられている制度らしいのですが、私に関して言えば完全に裏目に出ました。今の仕事や職場への不満を話すように求められ、今まであえて目を背けてきたフラストレーションを言葉にしたことで、自分が今の仕事をとても嫌っているという事実を認めざるを得なくなったのです。詳しく話して身元が割れるのは怖いので内容は伏せますが。

 

自分の実力以上の成果を求められて苦しみたい。やるべきことに追われていないと自分が生きている意味がわからないのに、自分のキャパの体感二割くらいしか求められていない現状が本当に苦しい。

私はたぶん泳ぎ続けていないと死んでしまうマグロのような人間で、それなのに観賞用の金魚鉢で飼われる金魚になるような、ぬるくて優しくて退屈な環境に身を置くことを選んだのも私。就職活動の戦略を誤ったのは自分だから自業自得でしかない。内定前には示しもされなかった職種での望まない配属とか、日本語がまともに通じないと感じてしまうヤバい上司だとか、そういう偶発的で私にはどうしようもない問題もたしかにあるけれど、大まかに言えば私が今苦しいのは私のせい。

 

自分を読み違えて就活に失敗した。そのことに薄々気付きながら、それを認めたくなくて仕事も通勤も楽しいと思おうとしてきたのがこの半年。楽しかった気持ちも全てが嘘ではないけれど、すべてが純粋なものではなかった。私は就活に失敗し、それによって全てを投げ出すことはせず切り替えて健やかに生きようとしたことにもまた、挫折しようとしている。

 

さっき読んだ本にはこんなことが書かれていた。

「有意義な仕事が長寿につながるとしたら、あなたの寿命を短くするものは何か?失業だ。(中略)しかし、嫌いな職に就いていることは、失業よりさらに悪い。2010年のギャロップ調査によると、疎外感を覚えたり、感情移入できない職に就いている人は、失業状態にある人より幸福度が低い。スウェーデンの就業者を対象とした調査では、単調な仕事は心筋梗塞の発症リスクを高めることが明らかになった。つまり、退屈な仕事はあなたを殺すのだ。」

 

自分が選んで入った会社を自分が配属された1拠点、もっと言えば1フロアだけしか知らずに会社全体に絶望して辞めるなんてありえないと思ってきたけれど、様々な事情で社内での異動はどうやらすぐには叶いそうもなく、でもこのまま終わりの見えない退屈な仕事に向き合い続けるのはあまりにも苦しくて、もう転職しかないかと思いきや、家賃補助が手厚い今の会社を出て一人で部屋を借り直さなければいけないのは怖くて、結局は退屈な仕事をしながら毎日泣くことしかできずにいる自分が情けなくて、こんな情けない姿は家族にも友達にも彼氏にも見せたくなくて、もう全部おしまいにしたい。実家暮らしの同期に辞めたいと相談されて「いいよね、会社辞めても家がある人は」って嫌味を飲み込んだ昼休み。相手を一緒に頑張る仲間と思えない自分の器の小ささに震える。もう疲れた。おわり

「罪を二度犯した者は、もはやそれを罪とは考えない」?

利己的だからこそ利他的に振る舞う人と真に利他的な人は多くの場合見分けがつかない。

こんな長文自分語りが習慣になっている私はもちろん、自意識が強く他者からの評価を気にして行動する前者側の人間です。

 

さて、この間不思議なことにツイッター以外の場でpapa活の話題に巡り合ってしまって。私は他人がしている分には構わないけれど、自然な稼ぎ方だとは思っていないので自分ではやらない、と話しました。過去に「P活しないの?(すればいいのに)」と問われたときにも使った答えです。

お金になるかならないかの感覚で人と関係を築く感覚が身についてしまうこと、労働とそれによって得られる対価のバランス感が壊れてしまうことが怖い。何よりも、なけなしの自尊心を底支えしているのが「自分は自分なりに正しいと思うことをして生きている」という自負だから、それを損なうくらいなら若い女であることを換金なんてできなくてもいい。まあ23になったことだし、もう言うほど若くもないしね……という私の答えに対する鋭い切り返しが、今夜ブログを書くきっかけになりました。

「で、P活をしないことによって守りたいその倫理観と不貞行為の折合いはどうつけてるの?

 

清く正しく生きてきた、つもりだった

Wikipediaで不貞行為を引くと「法律用語であり、配偶者としての貞操義務の不履行を意味し、民法770条に離婚事由として規定されている」と出てきます。

私はツイッターなどで度々「不倫は絶対にしない」と言ってきました。今の私の中で不倫には2つあって、1つは自分に夫がいるときにその人以外と関係を持つこと。もう1つは、自分がフリーであっても相手の男性に妻がいる場合に継続的な恋愛関係に身を置くこと。

つまり不倫と不貞行為はイコールではないという定義になっているわけですが、私が自分に禁じる不倫から「恋愛関係になく継続的とも言えない不貞行為」が抜けたのは勿論偶然ではありません。そうしないと自分の罪悪感を往なせない事態が起きたからです。

 

不倫は良くないことだと思うし、自分が生殖家族をもつことになったときには決して不貞行為をするつもりはありません。もちろん付き合っているだけの相手に対しても不義理なことをしたくないし、相手もそうあってくれたらいいなと思っています。

でも同時に、たとえば私の彼氏や未来の夫を他の女が「あわよくば……」と下心から誘ったとして、世間が沢尻じゃないエリカさんを叩くように彼女に対して烈火の如く怒ることはできないなと思ってもいるのです。

 

こんな風に「配偶者や恋人を思いやるのは当事者の仕事で、ポッと出の男女には責任を問えない」という考え方になったのは、そう、まさに自分がポッと出の女になったことがあったから。

彼女がいる男子と(そうとは知らず)恋愛関係になり、結果的に彼女の立場を奪ってしまったとき、彼は「君は悪くないよ、俺がずっと隠していたから」と言いました。でも彼女がいると分かってからも会うのをやめなかった私の行為自体、良心に反するものだったはずです。

そのとき私は「私ができたことは他の誰かにもできるわけで、略奪した恋は結局誰かに略奪されて終わるよね」、そう自虐に走ることで、結果まで全部引き受ける覚悟の上ですみたいな顔をして、良心の呵責から逃げました。

 

つまり私は、決して寛容な人間だから「好きになった相手に恋人がいようが結婚した相手がいようが 誘う権利は誰にでもある」などと言えるのではなく、自分がやってしまった以上他人のそれを否定することはできないという針の穴程度の道徳心から、事後対応的に善悪の基準をズラしてきたに過ぎないのです。おそらくは。

 

見えないのと無いのは違う

最近、「どうにもなっちゃいけない貴方とどうにかなりたい夜」という、タイトルからして矛盾がヤバい歌を聞きました。

この歌をサイコパスと評した理由。

それは私を「倫理観と自分の不貞行為の折合いはどうつけてるの?」という質問で刺した人が、この歌と同じように倫理観を棚に上げて行為し、さらにその行為を棚に上げて今度は倫理観を語る私のことをサイコパスと称したからです。

 

まず事が起こって、それを受け止める過程で自分の中の善悪の基準を変えて「これは悪ではない、だから罪悪感に苛まれる必要はない」と自分に言い聞かせる。時にはブログやツイッターを使って。

この自己正当化のプロセスには「悪いのは私だから」という相手の言葉、それから私のことを好意的に見てくれる人たちも「あなたは悪くない」「大丈夫、大したことないよ」と力を貸してくれます。

「配偶者や恋人を思いやるのは当事者の仕事で、ポッと出の男女には責任を問えないと思ってる」なんてわざわざ言うのは、その論理が自分の抱える罪悪感を一瞬だけでも軽くするような気がするから。

 

さてそろそろまとめに入りますが、今回のタイトルにつかったこの言葉の出典は、ユダヤ教の律法集『タムルード』です。

罪を二度犯した者は、もはやそれを罪とは考えない

言いたいことはわかるような気がするのです。確かに良心の声を黙らせてポッと出の不貞女になったあと、既婚者に騙された被害者女面もしますし、自己正当化のための理屈だって3,000字くらい平気で捏ねます。罪の意識に押しつぶされそうになっているようには見えないでしょう。

それでも私はこの教えに完全に同意はできません。良心はずっと黙り込みはしないし、躱したつもりの罪悪感だって消えはしない。自分が時々強大な憂鬱感に襲われて「ゆるされたい」と寝言を言ってしまうのはおそらく、過去の行為と無関係ではないと思っています。

 

私はこれからも自分の正当性を言葉を尽して証明しようとするだろうし、同時に自分の過去の行為と選択に苦しむのだろうと思います。

でもせっかく自分がいかに棚上げを得意としているか気付かされたので、今後はその自覚を持った上で図太くストイックに、善な人間を目指したいです。少なくとも、利己的な私が自分の為に使う言葉で私を優しい人だと評価して、それに救われたと言ってくれる人に対して、後ろめたさをおぼえることがなくなるくらいには。

 

余談ですが、ストイックという言葉の語源になったストア哲学にハマりそうです。ストア派は衝動や不運に対抗する手段として自制心や忍耐力を鍛えることを説いているので、どうにもなっちゃいけない人とどうにかなりたい夜に役立たずだった私の理性も叩き直せるかな。それはさておき、この本の「コントロールできるものとできないものを区別せよ」という教えはストレートに響いたのでご紹介しておきます。

迷いを断つためのストア哲学

迷いを断つためのストア哲学

 

懺悔もどきの長文に最後までお付き合いいただきありがとうございました!

おやすみなさい。さやかでした。

声に出して読みたいお名前「ズビグニエフ・リプチンスキ」

こんばんは。さやかです。先日、昨年からずっと行きたいと思っていて、忘れないように度々ツイートしていた「窓展」にやっと行ってきました。

 

そんな窓展で、個人的に一番面白かったのはこれ。ズビグニエフ・リプチンスキが1980年に発表した映像作品です。

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画像通りというかそれ以上に沢山の人物が登場するのですが、わたしは下品な裏垢女子なので、初見では裸の金髪美女や互いの身体を貪り始める若い男女にしか目がいきませんでした。

そして詳しいことは忘れましたが、この作品がすごいのは、デジタル技術のない時代に7か月もかけて作られたという点らしいです。確かにそれを聞いてから見ると、ただのシュールな動画ではない。なんとyoutubeで全編見られます。最後まで見ても8分ほどなので、ぜひ。

 

さて窓展を振り返って何を書こうかしらと、はてなブログのアプリを立ち上げたときに気付いたことがあります。特に書くことがない。見てきて良かったとは思うものの、長文で書き起こしたいと強烈に感じるものが今回は自分の中に残っていなかったのです。

例えば六本木で日本の昔ながらの遊戯展を見に行ったときのブログは、とにかく結婚というゴールだけを目指す19世紀の双六や、全然隠れられていない覗き行為こと垣間見を見て、ちょっとふざけながらも自分なりの角度で感想を綴ったつもりです。

今回見に行った窓展と同じ国立近代美術館で開催された企画展「福沢一郎展」の記事では、内容を紹介しつつ何だかまあ偉そうに自分の教養観を語っていました。

それが今回このブログを書こうと思ってブログを開いて、自分の中の感想の無さに驚きました。1時間半かけて展示を見たのに、自分の中に何も残った気がしないのは何なのか。

もしかして一緒に行ったのが好きな人だったからではないか、と大真面目に考えました。展示よりも隣の男が何を考えているのか、作品を見た私はどんな感想を述べるのが正解なのかを考えてしまって集中できなかった?

それとも福沢一郎展で見た超現実主義の作品は日本史と絡めて楽しめたのに比べて、今回は展示の編集・解説が私の不得意な美術の方に寄っていた?

 

それも全く無いとは言えませんが、おそらく直接的な敗因は何もメモしていなかったことだと思っています。

通常、私は美術展に行くと、気になった作品名はもちろん、解説の中で惹かれた言葉やら何やら片っ端からメモを取ります。そして過去にはこんなツイートもしているように、それは大体ツイッターの下書き機能を用いて行っています。下書きなら文字数制限もなく、同時に調べたネットの情報のスクショもサクッと貼り付けておけるので。

このル・コルビュジエ展も作品自体は特に気にいるものがなくて、ただ彼の言葉(の訳文)は、それに出会えただけでも足を運んでよかったと思えるものでした。

今回で言えばそれは先ほど紹介した『タンゴ』になるのでしょう。いくら誰でも・どこでも見られるyoutubeで公開されていても、おそらく私は窓展で遭遇しなければこの動画作品を見ることはなかったはずです。でも一度知ったことによって、この先見たいときにはいつでも見返すことができるようになりました。

 

それから、もう一つメモを取らなくても印象に残ったのはマルセル・デュシャンの『フレッシュ・ウィドウ』。

実はマルセル・デュシャンは私にとって、現代美術への漠然とした苦手意識を払拭するきっかけとなった芸術家です。2018年11月、東京国立博物館で開催されていた特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」。先に見に行った友人の好評を聞いて行ってみると、確かに良かったのです。一人の作家にフォーカスした展示を見るのはほとんど初めてだったのですが、作風の変遷や当時の一点物芸術への批判の意図だとか、展示の編集によって素人でもこんなに素直に飲み込めるようになるんだと驚いたのを覚えています。

東京国立博物館 - 展示 日本の考古・特別展(平成館) 東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」(開催期間は終了しています)

 

見て知ったことも考えたことも書き留めなければすぐに忘れてしまうし、それは確かにもったいないことではあります。だから自分の頭以外の場所に記録しておくことはとても大切だと思うのです。私も「窓展」の詳細な感想はもう思い出せないし、「マルセル・デュシャンと日本美術」なんて展示を1年ちょっと前に見たことなんて完全に忘れてしまっていました。

でも今回の窓展でデュシャンの作品を見たことをきっかけにデュシャン展を思い出したように、べつにアウトプットしていない経験や感想だって自分の中には当然きちんと残ってるのだよな、と。

 

自分で考えて噛み砕いて言葉にして残すことって、確かに私が大切にしたい行為の一つです。でもそれをする為の時間的・精神的な余裕が欠けていたりモチベーションが上がらなかったりするタイミングは確かにあって、その間に経験するインプットに次ぐインプットだって、自分の中に何も残らないわけではないはず。

矛盾することを言うようですが、自分が見聞きした知識とか自分のものにした経験について、書いて記録しておくということは後々思い出す為の1つの手段であって、上から新たなインプットを重ねて記憶を呼び起こしながら繋げていくというのも同じ手段としてある程度有用なのかなと思います。勿論これはあまりブログを更新せずに日々過ごしていることへの言い訳でもあるわけですが。

 

さて、全く内容を紹介できなかった窓展は今週末までです!

出雲と大和展は既に開催中ですが、私は見たいものが後期展示になっているので2/11以降に見に行きます。メモを残しながら見てきて、きちんと展示についてのブログを書けるようにしたいです。

ここまでお付き合いありがとうございました。おやすみなさい。さやかでした。

 

▽窓展

▽出雲と大和展