どんな言葉で君を愛せば|@oyasumitte

ハッピー賢者モードと人生イヤイヤ期を行ったり来たり

「このポエムはお前のことではないから安心して眠れ」

こんばんは。さやかです。最近、ツイッターで1Kリツイート3.6Kいいねくらいのプチ炎上(?)を経験しました。研修中は全然ブログを書けないと思っていましたが、体調不良で思わぬソロタイムに恵まれたので、ここ数日の研修講義中に考えていたことを書いてみます。

 

心地よく生きるためのミュート

まず件のツイートの内容としては、特に何か有益なこととか人の共感を呼べると思ったことをツイートしたわけではなくて。本当に何気なく、思わぬ地獄を生んでしまいました。地獄を覗きたい方はぶら下がっているクソリプ(もはやリプではない)をご参照ください。

https://twitter.com/oyasumitte/status/1117278719452696577

140字という限られた文字数の中で2文字分を使うカギ括弧を付けてツイートした意味は察してください。日曜日の午後にあまり深く考えずにツイートして、その時点ではいいねもほとんどつかないままタイムラインを流れていきました。

さて私は以前、恋愛関係のツイートがいつもより少し多くの人の目に触れてしまった際に「お前がその程度の女だからそんな目に合うんだよバーカ」と、完全なる通りすがりの他人に泣きっ面に蜂パンチを受けました。そんなの気にしなければいいというのは紛れもない正論ですが、私はどうしてもダメージを負ってしまいます。実はそれ以来私は、フォローされていない人からの通知を切っていました。

f:id:oyasumitte:20190417200856j:image

これはツイッターの歯車マークの設定の中の、通知設定で変えられます。余談ですが、意識だけは高いので高校時代からずっとiphoneの言語設定を英語にしています。

話を戻して、件のツイートはフォロワーが多いフォロワーさんにリツイートしていただいたことがきっかけで、多くの人の目に触れることになりました。通知が無いためしばらくはその事態に気づかず、妙に「フォローされました」の通知が増えたことで初めて異変に気付いたのです。

 

あのツイートは本当に誰のことでもない

私はマイルドヤンキーを否定したかったわけではないし、高級住宅街で暮らしてハワイで死にたいわけではないし、イオンが嫌いでららぽーとが好きなわけではないし、誰を否定したいわけでも誰を賞賛したいわけでもありませんでした。あのツイートの「私」が私さやかであるかどうかはお好きに想像していただいていいのですが、少なくとも私は「私はAを欲しいと思わない/いらない」という表現はAそのものや、Aの価値を認める人を否定しているとは思いません。ただ、確かに「そんなの」という表現には見下すような印象を与える響きがあったかもしれない、とは、あれをリツイートしてくれた私のことをフォローしていない人のツイートを多少見てみるなどして思いました。「私はネタツイ以外で嫌味や皮肉を言う大人にはなりたくないです」なんて少し前にブログで言っていましたが、ツイッターでも嫌味に聞こえるようなことは言うべきではないのかもしれません。でも気にしすぎて自分にルールを課しすぎると息苦しいし、ツイッターというか人に見られるアウトプットって難しいなあと改めて思う結果になりました。

あの人が嫌味や皮肉ばかり言うのは性格が悪いから? - どんな言葉で君を愛せば、

 

人の反応は読めない

今回の結婚イオン幸せツイートの伸びで、しばらくの間ずっと1,200人前後で停滞していた私のフォロワー数は、1,550人ほどになりました。「これはいいねが集まるのでは」と思った渾身のツイートが全然伸びず、狙いのないツイートが意外に伸びるのは珍しいことではないと思います。

最近読んだ『成功は“ランダム”にやってくる!チャンスの瞬間「クリック・モーメント」のつかみ方』という本にも「私たちは、行動がもたらす結果を予測する能力を過大評価しすぎる傾向がある。本当のところ、自分が何らかの行動を起こしたときに、他人がどう反応するかを知る方法はない。」とありました。

確かにこのブログでも、2月にSmartNewsに拾われた「何もしないから」と言って2人きりになっておいて何かしようとしてくる男の人が本当に嫌いだという話とか、3月にはてなブログ公式に拾われた改行され過ぎている文章が嫌いだという話とか、数字を稼いだページは個人的には「え、そこ?それが良いの?」という感想が真っ先に浮かぶような回ばかりだったのです。

はたまた、直接会った人には「就活生にティッシュを貸した話が好きだった」と言われたり、「凡人なりに頑張りたいって話が好きだった」と言われたり。

ブログを書くときは、自己満足もあるけれどもちろん毎回そればかりではなくて、どんな人に読まれるだろうかということを考えて書くことも多いです。でも結局誰にどんなふうに読まれて、どんな人に向けて共有したいと思われるかなんて予測はそもそもほとんどできないと思った方が良いのかもしれないと思うようになりました。

 

ラッキーチャンスは突然に

何かを発信してそれを多くの人に見られたいと思うとき、ターゲットやコンセプトを絞り込んでブレないようにするのも1つの戦略ではあるけれど、自分の行動の軸は持っておきつつも、とりあえず届く範囲で手を広げてみたり、わからなくても何か発信してみたりすると意外な大きさの反応が帰ってくることがあるなと。

自分が何をしているかは把握していると感じつつ、偶然に対しても心を開いておかなければならない。そして、偶然のチャンスを見つけたとき──すべての歯車がかみ合うクリック・モーメントが訪れたとき──には、そのチャンスに倍儲けできる準備を整えておく必要がある。

フランス・ヨハンソン『成功は“ランダム”にやってくる!チャンスの瞬間「クリック・モーメント」のつかみ方(原題 The Click Moment︰Seizing Opportunity in an Unpredictable World)』,阪急コミュニケーションズ,2013年。

そうやって出したブログやツイッターが突然降って湧いた大手サイトからの流入のように多くの反応を得たら、たとえば注目度が高い間に続きを書くとか同じようなテーマを連投するとか、そのチャンスをモノにするためにできることがあるはずです。

今回の結婚イオン幸せツイートに関しては、私はあれを利用してフォロワーを増やしたいとは思わず、むしろ怖かったので、ツイートごとミュートした以外は基本的に何もせず過ごしました。ただ、もしこのブログがまた読者以外の多くの人の目に触れるようなチャンスが降ってきたとしたら、次は何をいかに早く出すべきか、常に考えておくようにしたいと思います。この本良かったですー!

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。おやすみなさい。さやかでした。

成功は“ランダム

成功は“ランダム"にやってくる! チャンスの瞬間「クリック・モーメント」のつかみ方

  • 作者: フランス・ヨハンソン,池田紘子
  • 出版社/メーカー: CCCメディアハウス
  • 発売日: 2013/10/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

ダメ男に掘られた自己肯定感の穴に人の優しさが刺さった。

こんばんは。しばらくホテルに缶詰めにされて家に帰れない合宿研修で,ひっそりと鬱になっているさやかです。今日はこの研修で初めてお酒を飲まずに済む夜で,少し気分が復活してきたのでブログを書こうと思います。よろしくお願いします。

 

私はどこまでも犬だった

実は最近,出会ったばかりの男の人に「さやかちゃんってもしかして自己肯定感が低い?」と言われたことがありました。私は首にヒヤリと何かをあてられたような感覚に陥りましたし,実際わかりやすく動揺してしまったのだと思います。動揺を察した彼に「僕にとってはごく普通のことを言うだけで君は大袈裟に喜ぶから」と説明されたとき,思い当たる節しかなくて笑ってしまいました。ごく普通のことについての詳細は伏せますが,それは私が好きな人からの連絡はそれが相手の気まぐれであっても実家の犬のように喜びを前面に押し出して応じてしまうタイプ,つまり犬系女子であることの証明に他ならなかったのです。

ということは私は上記のブログを書いた1月から何にも成長していないし,彼にも他愛ないことで大袈裟に喜ぶチョロい女だと思われたし,もうオワリだと絶望しました。好きになりそうだったというか,既にちょっと好きだったのにまた懲りずに犬になって失敗してしまったな……と。

それから,自分が特別優しくされていたと思っていたことがとても恥ずかしく思えました。彼は私に他の人にも普通にすることをしていただけなのに,私は彼のその優しさを普通ではないと思ってしまったわけです。思うところがあって最近は距離を置いていた恋愛工学の言葉を借りて言えば,これってとても非モテっぽい状況です。誰にでも挨拶をする美少女に「おはよう♡」って言われて恋しちゃう中2の童貞と同じレベル。もうとにかく恥ずかしい。彼から「これだけのことでこんなに喜ぶなんて 君は今までどんな酷い目に遭ってきたの?」と追い打ちをかけられたときにはもう顔から火が出るかと思いました。穴があったら入りたかった。

 

どうしよう、好きな人が優しい

出会って1週間の人に自己肯定感の低さを指摘されてしまって,もう本当に私は終わりだ…よっぽど卑屈なんだ…と卑屈を極めて絶望しかけたのですが,私の動揺を察した先方は「僕は君に酷いことを言ったり急に連絡を断ったり絶対にしないから,大丈夫だから」と繰り返し安心させようとしてくれるのです。これが結構嬉しくて,結構というか嬉しすぎて涙さえ出そうになりました。

自己肯定感が低いことって,家族の中で育てられる過程で親からの愛に飢えていたとか複雑な家庭環境で育つとそうなりやすいとか,とにかく幼少期の家庭環境に要因を求められがちです。でも私の育った家庭は過去から現在まで円満も円満だったし,基本的に人の悪意に触れなくても済む環境に身を置くことができていたので,自分が愛されないこととか大切にされないことって別に私にとって元々当たり前だったわけではないんですね。それがここ2年ほど何人かの好きになった男の人たちに振り回され(ることを自分で選んできた結果として),自分が好きな男の人にぞんざいに扱われることが自分の中で通常状態になってしまったのですけれど。

つまり,出会ったばかりの自分が素敵だと思う男の人に優しくされたことは今の私にとっては当然ではなくて,だからこそちょっと浮かれてしまった部分があって,しかも犬系女子だから他愛ないことでもオーバーリアクションで喜んでしまって。でも彼の方から言外に君は特別ではないよと牽制された気がして,牽制されたと思って落ち込んだらそれもお察しされて,牽制ではないし君が特別なのは本当だと言われて,もう情緒は完全にジェットコースターです。

そろそろお気づきだとは思いますがここまでは好きな人が私に優しいんだ〜という自慢で,ここからが今回書きたかった本題です。

 

クソ男をクソ男にしたのは私だった

彼は私が卑屈になったり不安になったりしそうだと思う度に「僕は過去に君を傷つけた人間とは違うよ」と宥めてくれるけれど,本当は私が彼に指摘される前に,過去の男の人に対して抱いていた不安を彼に対して向けてしまっていることを自覚するべきでした。私はある好きだった男の子に不義理な仕打ちを受けて以来,好きになった男の人に対して不義理男へ向けていた感情や態度を向けるようになってしまっていたのです。

ある人に対して生じた感情や欲求,その人と構築した関係性を,そのまま別の誰かに向けたり期待してしまったりすることを,心理学の用語で転移といいます。これは例えば,ある女の人が側から見るとDV男ばかり選んでしまっている状況の1つの説明にもなり得ます。DV男ばかりを引き当ててしまっているという可能性も無くはありませんが,女性が過去にDVをされていた相手に対する感情や態度を,別のDV男ではない男性に向けてしまうことで,DV男ではなかった男性の嗜虐性や暴力性を誘発してしまっている可能性があるのです。人は何もされていない相手に無意味に謝られたり過度に気を遣われたりするとその相手のことを見下すようになってしまうのですが,DVの被害者は無意識のうちにこれをしてしまいがちだからだそう。

私の場合,不義理男に対して謙ったり都合良く振舞ったりしていたことを引きずって,好きになった人には下手下手に出るようになっていました。それは犬属性というような言葉で片付けていいものではなくて,それこそ卑屈としか言いようがないような状態です。彼に指摘される前に,私は自分が引き起こしていた転移に気付くべきだったのです。この2年間,好きになったのが全員特別酷い男の人だったわけではなくて,好きになった相手に不義理男を重ねてしまう私の言動すべてが,普通の男の人の中にある不義理を働く種に芽を出させてしまっていたのではないかと。

 

自責思考は行き過ぎると自意識過剰

成長するためには他責思考より自責思考,とはよく言われますよね。私が真っ只中にいる新入社員研修では,この自責思考を徹底的に叩き込まれます。私は叩き込まれる前から自責的というか自罰的な思考癖があり,自分が頑張れば,自分がもっと良くなれば,と考えがちです。自分の力さえあればすべて解決すると考える行き過ぎた自責思考は,自意識過剰とも言えます。

何かつらいことがあったとき,何か問題が起きたとき,それをすべて自分の責任として引き受けるには自分の許容量が足りない場合もあるし,引き受けることで適切な自意識の範囲を超えてしまう場合もあります。私がこだわってしまいがちな「他の人の私に対する言動」は,明らかに私がコントロールできる範囲を超えていると思います。私が男の人の不義理に泣いてきたのは無意識のうちに感情の転移をしていた私にも原因があって,ただし100%の要因があるわけではなくて。

そして今重要なのは,そのことは私が今好きな人にとっては本来全く関係が無いことだということです。過去の人と自分を重ねていると感じさせてしまうのはすごく失礼ですよね。彼に対しては,転移に気付かせてくれたことにも,「苦しくないと恋じゃない」くらいのことを思っていた私をすっかり「好きな人に優しくされることが幸せ」だという健全な状態に戻してくれたことにも感謝しています。変に謙ることなく良い関係を築いていけたら良いなと思いますが,相手のあることなので「自分が頑張れば…!」といつもの過剰な自責思考に陥らないように気を付けようと今回改めて思いました。

 

さて本日も長いポエムにお付き合いいただき,ありがとうございます。私は明日も研修を頑張ります。おやすみなさい。さやかでした。

桜は散るから美しいし、命は終わるから尊いし、私は癌になったら死にたい。

おはようございます。さやかです。

今日は社会人になって最初の日曜日。今年は運悪く4月1日が月曜日だったので,初っ端から1週間フル出社でした……と言っても私の会社はしばらくずっと研修なので,正確には一度も会社には行っていないのですけれど。それでも久しぶりに早起きと日中の睡魔との格闘を伴う長時間の拘束を週5で受けて,身体には結構疲れが溜まっている気がします。週末をこんなにも待ち遠しく感じる気持ち自体がとても新鮮で,それは単純に休みたかっただけではなくて,金曜日の夜に楽しみな予定があったからでもあったり。

桜は美しい

そして卒論提出以来の長かった冬(春)休みが終わって自分の休みが土日だけになった今,今まで社会人が私に対して割いてくれていた時間の価値の重さを感じています。男の人に誘われたり会って優しくされたりしても「私に興味があるわけじゃないんだろうな」なんて思っていた時期もあるけれど,大人には本当にどうでもいい人に会っている暇なんてないんですね。

昨日はカフェで朝ごはんを食べたあと,桜が綺麗だったので上野公園に行きました。人が多くて食べ物の匂いに酔いそうになったのと,あまりにも天気が良くて早く帰って自転車に乗りたくなってしまったので,本当に一瞬でしたが。

f:id:oyasumitte:20190406115559j:image

昨日は少し前までの寒さが嘘みたいに暖かいし桜も葉が目立つようになっている木もあって,ぼーっとしていたら社会人最初の春はすぐに通り過ぎて行ってしまうような気がしました。目の前のことに一生懸命になりつつ,一方で1年後にどうなっていたいかとか3年後にどうなっていたいかとか先のことも考えて動いていかなきゃなと思います。「先のことなんか予測はできないし考えても意味なんてないでしょう」と言う人もいるけれど,私はそんなふうに思考停止したり目を閉じてしまったりしたくありません。ぼーっと生きていたら桜は散ってしまうから,そうなる前に人はお花見の計画を立てるし,無計画でも咲いているのを見かければ足を止めて眺めたりもするでしょう?

f:id:oyasumitte:20190406115540j:image

ところで私が「もう22歳だからなあ…」という話をすると「まだ若いんだし,そんなに先のことばかり考えて心配しなくてもいいよ」と言ってくる大人ほど保険に入っていたり保険をすすめてきたりするのは何なんだろう。保険こそ先のことを考えて加入しているものなのではないでしょうか。

命は美しい

さて会社にとってかなり割高な投資だと噂の新入社員研修では,右も左も知らない新卒社会人に対して定期預金や株などいろいろなものが勧められます。大学の講義のようにこっそりスマホを使って暇をつぶすことが敵わないので話を聞くしかすることがなく,私も基本的に真面目に聞いているのですが,それでも保険の話だけはダメでした。「社会人たるもの保険についてもきちんと考えておきましょうね(大口取引先である保険会社さんと一緒に♡)」という会社からのメッセージが全く心に響かないのです。

遡ること2年。2017年の夏,私は就活をしていました。ある企業の短期インターンでグループディスカッション演習に参加した際,用意されていたお題が「長生きをしたいか?」。長生きしたい派,したくない派に分かれて意見を交わせ,というテーマでした。まずはそれぞれの意見を確認しようということになり,私以外の人が「長生きしたい」と言っていくのを私は嘘だろと思いながら聞いた後,迷わず「長生きしたくない」と言いました。長生きしたくないのは私だけだったので,少数派の私から理由を述べていくことになり「身体が中からも外からも衰えていくことに耐えられないし,死んだら自分の意識はなくなるんだからいつ死んでも同じ」とでも言ったような気がします。そしてさすがにグルディスの場には重すぎると思って言わなかったけれど,本当は「若い女であるという点に自分の価値が底上げされていると思っているから,若さを失ったあと生きるのが怖い。もしも好きなタイミングで苦痛を全く伴わずに生を終えられる方法があるなら,私は24歳あたりを選ぶだろう」とも思っています。

このように私はできるだけ長く生きたいとは思っていません。話を戻して,研修中に受けた保険の説明では「癌は治る病気になったが,治療費用は高額だ」というのが癌の保険に入った方が良い理由になっていました。でも延命を望まない私からすれば,それは理由になっていません。高額の治療を受けないと治らない癌になったら治さずに死ねばいいと思っているからです。人は誰しも必ず死ぬし,それがいつであるかはその人の死後を生きる誰かには影響したりしなかったりするとしても,死んだ本人は意識を失うのだから遅かろうが早かろうが関係がないというのが私の死生観です。

自由と親孝行

がん保険に惹かれない私は,生命保険にはもっと興味がない。今,もし生命保険をかけた私が死んだとすると,配偶者はいないのでお金を受け取るのはきっと父親になります。そして両親は私が死んだときに端金が舞い込むことを特に望んでいないと思います。もし自分に扶養する家族ができたなら私は癌を治療して長生きして働く必要があるかもしれないし,私が死ぬと困る人たちにお金を残す必要があるかもしれません。でも今は私が生きられなくなったときに困る人を思い浮かべることができないので,がん保険や生命保険にはとんと興味を持てないのです。このように考えて保険に入らないのも,高額の治療を受けないと死ぬ病にかかったときには死んでしまいたいと思うのも,私の自由です。私の命なので。

死ぬ自由といえば,高校生のときに私が行使した自由の1つに「臓器提供意思登録」があります。保健体育の授業で臓器提供について学び,すぐに臓器提供意思登録カードの発行を申請しました。運転免許証があれば裏に書き込むだけで済むものです。ネットで申し込むと郵送でカードが届き,あとは本人と家族が記名したら完成です。

f:id:oyasumitte:20190406220210j:image

f:id:oyasumitte:20190406220237j:image

日本臓器移植ネットワーク | 臓器提供について | 意思表示の方法

写真にあるように,高校生の頃から私の意思は「脳死でも心臓停止でも,とにかく死後にはすべての臓器を提供する」というものです。私がどうせ終わる自分の命の器を無駄にせず誰かに譲って活かしてほしいと思うことは,間違いなく私の自由でした。

でも今思うと,両親には悪いことをしたなと思います。高校生の娘に嬉々として臓器提供意思登録をしたいと言われた2人は,どんな気持ちになったでしょうか。万が一私が事故にあって脳死状態になったとして,機械に生かされているとはいえ今にも目を覚ましそうな様子なのに「脳死だから本人の生前意思通り臓器提供ね」と,娘の延命が止められ身体が切り開かれることに,両親が抵抗を感じないことがあるでしょうか。ないと思います。

死後には臓器を提供したいという意思は今も変わらないし,両親は私がそうするのが嫌かもしれないということを考えてもやっぱり自分が間違っているとは思いません。家族に重い選択の負担を強いるよりは,自分で決めておいて私の希望だからと納得してもらう方が結果的には良いのではないかとすら思っています。

ただ高校生の頃の私の行動は,あまりにも無邪気で気軽すぎたなと思います。両親に同意のサインを求めるとき,もっと2人の気持ちを考えるべきでした。そして今も両親とは基本的に何でも話す仲ですが,がんになったら死ねばいいと思っているから保険には入らないつもりだなんて話はとてもできません。

 

このように,私の身体も私の命も私のものだし,これをどうするか決める自由は私にあるはずだけれど,母親に産んでもらって両親をはじめ多くの人の中で育ててもらった分と今も大好きな人たちの中で生きている分だけ,私の自由を通せないところもあることがわかってきて。親孝行な娘でありたいのも親より先に死にたいのも私で……とりあえず今は,娘として初任給で両親に何をプレゼントしようか,何をどんな風に伝えようかを考えておくことにします。

蛇足ですが,病気の治療に関してはこのような軽薄な考えをしている私も,感染症の類の予防接種は積極的に受けます。これは私の中では矛盾していなくて,私は私自身が感染してしまったら死ねばいいと思っているけれど,私が予防接種を受けなかったことが原因で感染症の拡大に加担してしまったら嫌だからです。

……ということで今日も長々と書いてきましたが,桜は散るから美しいし人は死ぬから尊いし休みは終わるから貴重なので,私も社会人初の日曜日を有意義に過ごしたいと思います。最後までお付き合いいただきありがとうございます。ごきげんよう。さやかでした。

 


乃木坂46 『生まれたままで』Short Ver.

いつ聴いても「問題なのはあまりに長い命の残り」という歌詞が心に刺さって抜けなくなってしまうので迂闊に聴けない曲。